善光寺の燈籠佛
甲斐善光寺の秘佛 《燈籠佛》 には不思議な物語が伝えられています
以下 パンフレットに添って お話しましょう
推古天皇の御代 聖徳太子は仏敵 物部守屋を打ち滅ぼしました
太子は守屋によって静められた 三国伝来の一光三尊阿弥陀如来像をお迎えするために 難波の堀江に参上しました
すると 如来は水中から現れ
「待つべき人がいる」 と仰せになります
そこで 聖徳太子が重ねて願ったところ 如来はたちまち身を分かち 太子の宝冠に停まったと申します
これが 当善光寺の秘佛 一寸八分の一光三尊 《燈籠佛》 出現のはじめといわれます
この霊像は 聖徳太子滅後は 龍宮に赴いて利益を施しておりましたが 元亀三年(1572)十月 機縁が熟し伊豆片浦の浜に上陸しました
霊像は 砂中に隠れて 夜な夜な光を発していたところ 同所に住む赤沢茂左衛門という男が その光をたずねて掘り出し 家の中に安置して 日夜礼拝しておりました
一方 甲斐には西本坊という念仏の行者がおり 甲斐善光寺金堂修復の志を立て 金燈籠を金堂に懸けるため 小さな燈籠を作り 駿河・伊豆両国を歓進しておりました
すると ある夜の夢にこの霊像が現れて この由縁を語り
「赤沢茂左衛門というものを尋ね 我を請い求めよ・・・ 汝が携える燈籠に入れ 甲斐善光寺に安置すれば その軽重によって 世の人々の吉凶善悪を諭そう」
その頃 茂左衛門も同じ霊夢を見ていました
西本坊が茂左衛門の元へ到着すると 夢のお告げ通りに如来を燈籠に入れ その軽重をうかがうと 夢に違う事は無かったと申します
西本坊は歓喜して如来を獲得し 甲斐善光寺に安置したのでございます
時に 元和年間(1615〜24)のことであったと申します
この 《燈籠佛》 は諸人の願いは 極楽往生の可否から万事の吉凶まで 言に応じて軽重を示すので みな生身如来の仏勅として尊んでいるとのことでございます
武田信玄にまつわる 《燈籠佛》 伝説
これは ちがった観点からの燈籠仏のお話で パンフレットには記載されていません
一説には 武田信玄が善光寺の普請をしていた頃 信濃善光寺から一寸八分の如来像を 普請が仕上がるまでという約束で借りてきた
ところがいつまでたっても返さぬので 隣国からたびたび使者が催促にくると まだ普請が仕上がらぬと断っていた
ついに十年もたって最後の使者が来たとき 信玄は金仏を燈籠の中に隠しておいて
「はて あれはすでに返したはずだったが 念のため寺の中をよく探してみるがよい」
使者は寺内を隈なく探したが ついに判らずに帰国した
それ以来 工事などの長引く事を「善光寺普請」 頑固で人の申し出に応じない事を「燈籠仏」というようになった
そういえば 亡くなった祖母が
「あいつはほんとに頑固者だぁ〜 ああいうのを とーろぶつ って言うんだぞ」
と言っていたのを覚えています・・・
でも マンノウォーに言ってたのではありませんのであしからず
また この燈籠仏は昔 鎌倉の海辺から出現した仏で 奇妙である事計りがたい
諸願をかけてこの仏様を持ち上げると 願いが成就する人には軽く上がる
願いが叶わない人には 力を出しても上がらない
という話もあります
それほどこの燈籠佛は 有名だったのですね
《燈籠佛》 のその後・・・
善光寺本堂 金堂本陣西の間に安置され 秘佛とされました
しかし 願掛けの際に燈籠を持ち上げて 吉凶を占う事は 寺の内外で盛んに行われており 多くの記録が残っているそうです
「東海道四谷怪談」のせりふにも取り入れられ 川柳や歌舞伎 浮世絵などにも登場するほどポピュラーになりました
また 嘉永元年(1848)には 《燈籠佛》 が上京し 孝明天皇の宮中において 天拝にあずかっています
熱狂的な信仰を得ていた 《燈籠佛》 の占いは 明治6年(1873)に 時の県令(県知事)藤村紫朗により
「山梨郡善光寺を以って吉凶禍福を卜(ぼく)するを禁ず」
と廃止を強要されました
これは 人々がすっかり信じ込んで説得できないので 強制的に禁止するということになったそうです
現在では 《燈籠佛》 について知る人もほとんどなく 2000年となった平成12年9月9日〜11月5日 約百三十年ぶりの御開扉となりました
《燈籠佛》 御開扉へ行ってきました・・・
約130年ぶりの御開扉とあって これは何としても見なくては!
小雨のそぼ降る天気でしたが 行ってみて感動・・・
燈籠佛の前で長い時間 老夫婦が合掌し 参拝していました
何か その夫婦にも感動したのを覚えてます
これが 燈籠佛です
ほんとうに小さくて 目を凝らして一生懸命
小さな目を見開きました
燈籠佛について・・・ 少しずつ 興味のあるお話を UPさせていきます
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