箭執(矢取)不動尊

 

平成15年4月20日、石和川中島合戦にて、赤備えの武田軍に一人の老巧な武将が見受けられた。

白鉢巻に 「箭執不動明王」 と描かれている。

いったい、この箭執不動明王とは何の事なんだろう・・・

 
大善寺

三浦半島、衣笠城址にある金峰山大善寺。

風土記や三浦古尋録には不動明王之堂の別当寺と記載されています。

おや、そう云えば某武将の名付け親の墓地ではなかったか・・・

大善寺

●不動明王之堂 別当大善寺 小矢部村禅宗大松寺末寺 御朱印三石

此不動明王は三浦平太郎為次、八幡太郎義家公に随東征して武勇を励したるみきり、此明王現し玉ひ敵の矢を尽く執り玉ひ、是によって為次高名を顕す、夫よりして矢取不動明王と崇むと云、又矢除明王とも云、三浦太郎義次社頭造営

三浦古尋録より

 
しかし、事実は本当なのでしょうか・・・またまたここで、無知なる歴史素人・三浦介星友の挑戦がはじまりました。

あ、そうそう、白鉢巻の老巧な武将、まさしく三浦介星友でございます(苦笑)

さて、簡単にこれから登場する三浦一族の系統を載せておくことにしましょう。

為通 ― 為次(為継) ― 義次(義継) ― 義明 ― 義澄 ― 義村 ― 泰村

まず、不動明王之堂と大善寺とは三浦古尋録にみられるように、本当に別の存在だったのでしょうか。

一説によると、金峰山不動明王之堂が改宗改称されたのが大善寺とも伝わっております。

不動明王之堂は三浦氏累代の祈願所で、堂宇は衣笠城の二の丸といわれる位置にあります。

開基は行基菩薩、開基の年代は天平元年(728年)、行基六十二歳の春四月。

本尊は行基の彫刻による不動尊像で、この不動尊像は衣笠城の鎮護として、三浦氏累代の敬神していたもので、数々の霊験を顕しています。

 
行基の清泉伝説

大善寺へ登る階段の下に、不動尊御手洗池と呼ばれている清水の湧き出している泉があります。

この池は行基菩薩がこの山の上で自ら不動尊の像を刻んで奉納した時、山の上ですから、神に祈って身を払い清める水がありません。

困った行基は、一心に祈願をし、持ってきた錫杖でここの岩をひと打ちすると、不思議にもそこから清水がこんこんと湧き出し、無事に修祓の儀をすませたと伝わっています。

この涌き水は行基の清泉となって、今に伝えています。

不動の池

 
大善寺は始めは、法相宗であった三浦泰村(義村の二男)が、先祖為通の命日、宝治元年三月十四日に永平寺道元禅師を衣笠城に招き、父義村の七回忌を兼ね、大法要を執行しました。

この時の大善寺住職が、道元禅師の徳風を慕い、曹洞宗に改め、今日に至っているということです。

三浦宗家が滅んだのが宝治の乱、為通大法要・義村七回忌の数ヶ月後でした。

三浦宗家一族郎党はこの乱において、鎌倉の法華堂でこの世を去りました・・・法華堂の近くには「三浦やぐら」が残っています。

 
話を戻します。

三浦古尋録による箭執不動明王、為次が後三年の役において、清原武衡、家衡を出羽の金沢の柵に攻めた際の事です・・・

敵方から射られた矢は数限りなく飛んできます。しかも、飛んでくる矢は為次に集中してくるようにも見えました。

ここで不動明王之堂に安置されていた不動明王が忽然と姿を現し、左右前後に敵の箭(矢)を払い、味方を勝利に導いたのです。

以来、この不動明王の事を箭執不動尊と呼ばれるに至りました。

これが現在、大善寺に残っている不動明王のことです。

また、この戦いでは鎌倉権五郎景政と、三浦為次の有名な逸話も残っていますよね!

しかしここで、或る経路で「衣笠不動尊総縁起」という記録を入手しましたので、それを紹介しましょう。

三浦古尋録の大善寺縁起と比べると、多少の変化が見られます。

 

衣笠城址・金峰蔵王権現跡

衣笠不動尊総縁起

相州三浦郡衣笠邑大善寺は行基菩薩開闢の古道場なり

往古基公天平元巳の年人王四十五代聖武帝の年号なり

三浦郡行脚の路次遥るかに此の境を望めば、金色の雲峰を覆ふ、即ち尋ね来て山上に攀れば嵯峨として法性の峰峙は寂寞として禅定の窟間なり

故に錫を此の山に駐め四方を顧れば、三浦の千峰恰も和州吉野山に似たり、慈に因て金峰山大権現を勧請して、以て三浦の総鎮守と為す

蓋し夫れ金峰宮は人王二十八代安閑天皇の垂跡なり、彼の小角に祈誓の時金剛蔵王大菩薩の形像を現す、即ち是れ普賢菩薩と一体分身なり

特に麓に霊泉あり、故に不動明王並びに金伽羅制釈迦を彫刻して以て国家安全祈祷道場の本尊と為す

既にして居城を衣笠に定め長門守平為通、此の郡を領し初て三浦を以て家号と為す

人皇七十代後冷泉院の御宇、永承六年、源頼義卿同義家卿東夷追討の為に奥州に進発す是に於て三浦長門守為通両大将に属して奥羽二州に合戦を為し、武勇を励まし千戈を振う金峰神金甲華冑の形を旗の上に現し、大いに宝剣を飛し強敵を追退し安全を得て、名高を揚ぐ故に之を宝剣神と称し奉る

且つ又、敵軍の射る矢降る雨の如し、不動明王自ら忿怒の勢いを現し、前箭を左の索に執搦して後箭を右の剣にて切り払い、長門守安穏なるを得たり、故に矢取不動尊或は又見守不動明王とも称し奉る

金峰神の冥感不動尊に霊應偏に是れ年来長門守為通信仰し奉るに依る者か、以来三浦の子孫歴代信敬浅からざる者なり

就中大介義明は毎月金峰宮及祈祷の道場に参詣し信敬猶深し、人皇七十六代近衛院の御宇久壽二亥年春二月、玉藻前の妖怪に依て天子不豫安部の易諧之を占て曰く是れ玉藻前の所為なり

時に玉藻忽ち野狐と化して那須野に飛び去る茲に因て帝東国三浦介に勅して之を狩らしむ、三浦介義明射て殺す即時義明上洛し奉聞に奉る乃ち以て玉躰快然たり、叡感斜ならず相模介に任ぜらる従五位上に叙す、且つ又大の字を賜ふ故に大介と称す

大は守に準ず所謂相模守に準守せらる誠に規模邂逅の儀と為す、即ち三浦相模大介平朝臣義明と号す・・・以下略

衣笠不動尊総縁起より

 
衣笠不動尊総縁起を読む限り、三浦古尋録で記されている後三年の役よりも以前の、前九年の役において、箭執不動明王がデビューしていたことになりますね!

三浦太郎平太夫為通は、村岡忠通の嫡子で、従五位下長門守に任ぜられています。

三浦郡を知行するにあたって三浦長門守平為通と称しており、為通は三浦氏の始祖でもあります。

為通は父の死後も国司を務めていましたが、祖父の良文によって開かれた相模の国府、村岡の地を廃して、三浦郡を相模の国府として選びます。

三浦氏三代のお墓(清雲寺)
三浦氏三代(為通・為継・義継)のお墓

その構想は戦国時代の武将にも負けない完璧な守備構想ではないかと、管理人は思っています。

それは、鎌倉幕府成立以前の三浦半島を、半島ごと城郭化とする壮大な構想でもありました。

北方、武蔵方面からの進入は鎌倉の杉本(現杉本寺・杉本城)、相模よりの海岸線からの進入に対しては葉山・鐙摺城にて防ぎ、三方は海に囲まれた要害とし、各要所、良港には一族郎党を配して守らせています。

為通一代で完成された訳ではありませんが、その構想を代々脈々と受け継いだ頂点が、郷土の誇り三浦大介義明ではなかったのかと、考えています。

その中心になるのが衣笠城、そして信仰の中心がこの大善寺に伝わる箭執不動明王なのですが・・・

為通の時代、前九年の役の勲功により一族は衣笠に居を構えたと伝わっています。

とすると、やはり後三年の役後に、戦場へ箭執不動明王がデビューしたとする伝承が理論的にも合致します。

ただ、どうもこの衣笠不動尊総縁起にある前九年の役の記述が気になって仕方がありません。

ならば、為通が未だ衣笠へ来る前に、この箭執不動明王が忽然と現れ、三浦一族をこの地・衣笠へ招いたのではないか、と・・・

そして、行基の時代に彫刻されたとする不動明王が、心から三浦半島の地を愛し、自身と郷土を守ってくれる名君を探していたのです。

と、まあ、一人勝手に想像している管理人なのでございます(苦笑)

伝承というのも、時と時代によって変化していくようですし、またそれが面白いものなのかも知れません。

 

平安期から鎌倉期にかけての三浦一族に関する文献が非常に少ないのが残念ではありますが、伝承の奥深くを追求したり、また、想像したりするととても楽しいですよ!

これを機会に、鎌倉時代初期までの三浦一族に興味を持っていただければ光栄と思っております。

では、本邦初公開!

大善寺にあります箭執不動明王の画像を紹介させて頂きます。

前立不動尊像
前立不動尊像

奥にあるのが箭執不動明王
箭執不動明王

また来年も箭執不動明王が石和川中島合戦に参陣してくれることでしょう〜(笑)

おしまい

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