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山梨の民話・伝説

 

ここでは 武田氏に限らずに 山梨に残っている 興味深い 民話・伝説を集めてみました・ ・ ・   



岩殿山の鬼退治


平将門と小菅村


思い杉の伝説


おなん淵のお膳


おいしがね


方外院の千匹絵馬


龍厳渕の伝説


猫の恩返し

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岩殿山の伝説
   

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猫の恩返し

 

昔 村のはずれに荒れ果てたお寺がありました
書院や本堂の周りには 丈の高い雑草が ぼうぼうと生い茂って 朽ち果てた山門をくぐると 狐や狸の住みかではないかと思われるくらいです

秋になると ぼうぼうと生い茂った草むらの中 崩れかかった石垣の間などでコオロギがほろほろ鳴くさまは ほんとうに悲しく聞えます

ある日 托鉢に出掛けた和尚さんは 何処からか可愛らしい子猫をもらって来ました
和尚さんは猫を非常に可愛がるので 猫は日に日に大きくなってきました

冬になると和尚さんは 托鉢に行くことが少なくなってきました
とろとろ火の燃えている炉端で 猫は丸くなって寝ています
外には木枯らしが吹いています

破れた戸の隙間から冷たい風が流れ込んできます
冬のあいだは寺に入って猫と一緒に 秋に採っておいた栗を焼いて食べたり 猫には乾かした魚をあげたりして暮らしています

木の芽が出るようになると 和尚さんは猫を一匹寺において 托鉢に出掛けます
こうして幾年か経ちました

今まで可愛らしかった子猫も もう 大人になりました
本堂を駆け回って いたずらをするネズミを取るようになりました

和尚さんはもう歳をとって 顔にしわがよって 元気が衰えてきました

その歳の冬 和尚さんは病気になりました
そして だんだん重くなっていきました

ある日 和尚さんは床の中に一緒に入っていた猫に

「私はもう死ななければならない この猫が人であったらどんなによかったか知れない
 私は今までおまえを可愛がってあげたのだから いくら畜生でもせめて何か一つでも 恩返しをしてくれまいか」

と あたかも人さまに言うように話をしました

すると 猫は解ったか解らなかったか知らないが そのまま床から抜け出して何処かへ姿を隠してしまいました

和尚さんはその日 とうとう死んでしまいました

猫は甲府を目指して街道を通っていました

ちょうどその時 甲府の旗本の渡辺某のお弔いでした
猫はそのところへやって来ました

そしてその柩を持って何処かへ走り去りました

しばらくは皆 びっくりして見ていましたが その後を付いて行くと 名も知らない荒寺へ行きました
旗本の家の人たちは ここを家の菩提寺としました
そして その和尚さんも厚く葬りました

それからだんだんこの寺が立派になって 今のような大きなお寺になったのだと言います

なお この感心な猫の霊に感謝して 後に境内に猫塚を立て 供養を行ったそうです

 


慈照寺

古くは真言宗の寺院であったそうですが 室町時代の延徳元年(1489) 真翁宗見禅師によって禅寺に改め開創されたとあります

寺記によると 開基は諸角豊後守昌清(武田信昌の六男)で 開山堂に位牌が安置されています

慈照寺文書も貴重な古文書として知られ 武田信虎書状 武田晴信棟役免許状 武田晴信禁制 武田勝頼寺領安堵状などがあるそうです

この文書は県指定文化財となっていて 他には山門 法堂も同文化財になっています

伝説にまつわる 井戸屋(龍王水) 猫石も見られるそうです

是非 今度伺ってみたいお寺です

おっと では 龍王水についての
慈照寺寺記をお伝えしましょう

 


龍王水

龍王村慈照寺開祖宗見眞翁禅師 或日杖を曳いて龍王端即ち今の信玄堤に至り 其の深淵に臨み給ふ

かつてこの淵に悪龍の棲息するあり 恒(つね)に村人を惱亂(悩乱)せしむと聞き爲めに圓頓(天台宗の教理)の戒脉(戒の血脈)を授け興ふ

翌夜忽ち白髪の異人あり来りて禅師の前に倒り 禮謝(礼謝)して曰く

「我は之れ龍王端の主なり 昨日師の徳戒を蒙り遂に此の悪趣を脱するを得たり 仍て何を以て禅師の恩徳に報いんや」

時に 開祖禅師曰く

「實に汝の言の如くならば此の地固より水便を缺(か)く 吾が爲めに此を施せ」 と異人諾して出で其の去る所をしらず

明日に至り果して堂前に清浄の法水湧き出すこと

異人の杖を立てたる痕なるを以って 卓杖水又は龍王水と唱え今に存す

王維新迄は女人の汲み取りを禁じたりと

これは婦人若しこれに臨まれば必ず濁水に變(変)ぜし故なりと

因に記す 此の井水僅かに六尺四方 深さ三尺に過ぎざれども 唯此の水は人少なくも余ることなく 千百人にても足らざることなきは實(実)に開祖法徳の溢るる所にして 不思議といふべきのみ

 


 

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平将門と小菅村

 

小菅村に昔から伝わっているお話です
ある年のこと・・・
狩人が二人して土室山に鹿を射ちに行きました
二人して山の奥へ奥へと進んでいくと 突然山の奥から 物凄いひずめの音をたてて 大きな獣が
二人の前に現れ走り去って行きました
狩人たちはその大きさと 速さに討つことはおろか 驚きのあまり 気を失ってしまいました

しばらくして気がついた二人は 獣の走り去ったところに行ってみました。
それは お盆のように大きな馬の足跡でした
どうしてこんな山奥に 馬がいたんだろう
本当は 馬ではなくて 化け物ではないか・・・
二人は早々に狩をやめて 帰ってしまいました
やがてそれは平将門の乗馬とわかったのです

平将門は 朝廷の手の者に京都から追われて 大月の七保町に身を潜めていたのでしたが 追っ手が迫り馬で逃げました
土室山は険しく馬でも登れないので 愛馬を乗り捨てたのです
その馬が次第に野生化し 笹や栗 ドングリの実などを食べて 以上に大きくなったものとわかりました

なお 平将門は土室から小菅に逃れ 橋立地区内の今のヤバナを通った時 
橋立の向こうフッテラ(古寺)で幕府勢が弓で将門を射て その矢が土や岩に刺さり 
それが花のように見えたので地名が矢花(ヤバナ)と 呼ばれるようになったそうです

将門がそこから葛の久保谷で敵と戦ったその場所を一戦場と言い そして獅子倉山を越して丹波山村に逃げたそうです
その場所を逃延(しげのぶ)といいましたが 今では 「茂延」という字が当てられるようになりました

将門はその後 丹波山村お祭り地区と七ツ石山を経て 七ツ石神社の御神体を守り神にいただき
武蔵野国に落ちたのだと言う事です



葛野川をさかのぼって行くと松姫峠に至ります・・・ 右下は「松姫峠」と書かれています


  平常門(将門二男)について

京都の朝廷に反旗を翻した平将門は 天慶の乱で朝廷軍に破れ 将門は敗死するとなっています。
その一族が路頭に迷い 二男である常門一行を 青梅の里から甲斐国 鶴郡駒宮の里に誘致しました
一行を誘致したのは 八百比丘尼と言われています

常門一行は 駒宮入り口に駒宮城を構築しましたが 完成前の天暦二年(948年) この地を捨て 葛野川最奥の地長峰にうつり住みました
現在 この地は長峰殿といい 六千平方メートルほどの広い平地が残っているそうです
その上方には上屋敷 下方には下屋敷・井戸・金つけ・広い馬駆場などがそのままに残っているとか
上屋敷は常門一門の主屋敷で一番広く 約千平方メートルほどで 従者の住居はその下にあったといいます

戦国時代には 岩殿城周辺に馬場が急速に構築されるなど 将門の馬飼いの技術が復活されました
この 全馬場で飼育された馬の数は千頭にも及んだといわれ 
小山田氏・武田騎馬隊の活躍も この将門〜常門と受け継がれた一端があるのでしょう


 

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思い杉の伝説

 

古老たちの言い伝えによると 昔 椿米村(現増穂町)の豪農の家に「おも代」という娘がいて 年のころは 17,8歳の美しい娘だったそうです
そのおも代がある男と相愛の仲になりましたが 男の方は貧しい農家の一人息子だったため 互いの親たちは二人の恋に猛反対でした

恋しい男を一心に思うおも代は湯沢の地にある 夫婦杉の脇にある不動尊に毎夜人目を忍んで通い 恋しい男の名前を書いた紙を夫婦杉に貼り付け 冷たい水で身を清めては お百度参りをしました

これを知ったおも代の両親は けなげな娘の姿を哀れに思い 二人の仲を許すようになり 晴れて夫婦になりました

その後 おも代が毎夜 願をかけた不動尊の脇にある杉の木を 村人の間から誰言うともなく あれはおも代杉だというようになり それがやがて思い杉と呼ばれるようになり 若い人たちの間には 愛の祈願所となり 現在に伝えられてきました

そして この思い杉の物語を慕うように 今もお参りする人を見かけるといいます

この杉は 根元は一つですが 少しずつ上がった所で二つに分かれ 上に行ってまた合体し その根元からは子供杉が生えていて その姿はちょうど 夫婦仲の良い姿を想像できるような形をしています

なおこの 珍しい杉の木は昭和35年に 県の天然記念物に指定されたということです


  思い杉はどこに?

この杉の木 どこにあるのでしょうか
本で見ると ほんとうに不思議な形をしています
こういう変わった形をしたものは 木や石に時々見られますし それにまつわる言い伝えも 多々見受けられます
皆さんも こういった伝説 知っていたら どんどん投稿してくださいな・・・

あと この思い杉の場所も知っていたらお願いしますね


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おなん淵のお膳

 

古渡山が裾を引いて終わるあたり 松の緑が美しい小高い山が鹿留川に入ります
その流域に「おなん淵」が静かに蒼い水をたたえています

その昔 この淵の近くの長者の家に 「おなん」 という気立てのやさしい娘が奉公しておりました
おなんは働き者で近所の評判もよく もちろん主人も目をかけ可愛がっていました

ある日のことです
おなんはふとしたことから 主人が大切にしていたお膳をこわしてしまいました
日ごろやさしかった主人の叱り方が いつになく激しかったので おなんは急に悲しくなり とうとうその日の夕方思い余ってそっと家を出てしまいました

主人は あたりが次第に暗くなるのに おなんの姿が見当たりません
一時は怒りにまかせてひどく怒ったものの 心配になり おなんの名を呼びながら必死で探しました
けれども見つけられず どこにもいません
そして「 おなん〜 おなん〜 」
とさがしもとめるその声は 一晩中 山や谷に響きました
それでも とうとうおなんを見つける事が出来ませんでした

翌朝 淵の岩場の上に おなんのはいていた草履がきちんと揃えてあるのが見つかりました
この淵に身を投げていたのです
大騒ぎになりましたが おなんの亡骸はいつまでたっても深く蒼い水底に沈んだままで 浮かんではきませんでした

その後 村に人寄せの時があるときなどに 前日に
「お膳を十膳お貸しください」
と紙に書いて淵に浮かべておくと 翌朝にはお膳が行儀良く浮かぶようになりました

ところがある時 借りたお膳を五膳だけ返さなかったので それからは貸してくれなくなってしまいました

今も その借りた黒い漆塗りの見事なお膳が 宝鏡寺に一膳 古渡のある家に四膳 残っているという事です


  宝鏡寺

この おなん淵のお膳が実際にあるのか 知りたくて 宝鏡寺へも今度訪れてみたいのですが・・・
まず 今わかっている範囲の 宝鏡寺についてお伝えします

宝鏡寺は 大月駅と河口湖を結ぶ富士急行線の「東桂駅」近くにあるようです
この寺は 貞和二年(1346) 鎌倉幕府執権 北条重時の九男で 名僧の誉れたかい鶏岳永金によって開山されたとあります

境内に入るとあちこちに石造りの羅漢像があり 笑っている顔 悲しみをした顔 怒っている顔 さまざまで 庶民の生活そのものを表しているといいます
本堂の裏山には羅漢堂があって 十六羅漢をはじめ木彫の135体の羅漢像が安置されているとのこと
近くには古来から有名な「田原の滝」があり そこからの富士山の眺めは素晴らしいそうです

この おなんのような やさしくて気立ての良い そしてどこか悲しげな 石造や木彫の像を探してみたいものです


 

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岩殿山の鬼退治

 

昔々 岩殿山に大きな赤鬼がすんでいて 里に出ては女や子供をさらったり 牛や馬を盗んで食べたりしていたので 里人たちはたいそう困っていたそうです

この山の東のほうに百蔵山(ももくらさん)という山があって その麓の葛野川に大きな桃がひとつ転がり落ちて 川下へ流れいったそうです

その頃 上野原の鶴島というところに仲の良いお爺さんとお婆さんが住んでいました
お爺さんは山へ芝刈りに お婆さんが川で洗濯をしていると 川上からドンブリコドンブリコと大きな桃の実が流れてきました

「なんとでっかい桃だんべえ」
と 拾い上げたお婆さんは家に持って帰り お爺さんと一緒に食べようと思って割ったところ 中から可愛い元気な男の子が生まれてきました

桃太郎と名づけられたその子供は やがて強く逞しく成長し 岩殿山の鬼のことを聞き
「ひとつ退治してやろう」
と お婆さんにキビ団子を作ってもらって出掛けました

途中犬目というところで犬を 鳥沢でキジを 猿橋で猿を家来にして 岩殿山に向かっていき麓まで来たとき大声で呼びました
鬼は怒って持っていた石の杖を二つに折り 左手でそれを投げましたが その杖は途中の畑に物凄い勢いで突き刺さり その辺一帯に地震が起きたそうです

このことがあってから ここを「石動(いしどう)」 と呼ぶようになり 今でも畑の中に残っている石杖を「鬼の杖」 と呼んでいます

そのあと西の方へまわった桃太郎めがけて 鬼は残りの杖を投げました
それは 笹子の白野という集落の境に突き刺さり これは「鬼の立石」 と呼ばれるようになりました

桃太郎は鬼の攻撃にも負けることなく やがて岩殿山の頂へ攻め上がっていきました
あまりに勇敢な桃太郎に追い立てられて逃げ出そうと 東の山へ足をかけたところを 待ち構えていた桃太郎に 腹を切られて死んでしまったそうです

死んだ鬼の腸が固まったといわれるところを「鬼の腸」 と呼び 赤い色をした土のところは「鬼の血」 と呼ばれています


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おいしがね

 

都留市下夏狩(下原)の田圃の中に大きな石があります
人呼んで 「おいしがね」 という 岩の周囲三十二メートル 高さ五メートルもある一つの岩で その上に石の祠があります

昔 富士山の噴火のとき降ってきたものだといわれていますが 富士の溶岩とは違った質の岩だと土地の人は言います

この岩にこんな伝説があるそうです

昔 夏狩というところのある家に 「おいし」と 「おかね」というとても仲の良い姉妹がおりました
たいへん親孝行で 近所でも評判の働き者でした

ある日のこと 二人はいつものように 日の出ないうちから野良に出て 一生懸命に働いていました
お昼になるとまわりの人たちは家に帰っていきましたが 二人は予定の仕事が終わらないので なおもせっせと働いていました
すると一天 にわかにかき曇って たちまち稲妻が走り 雷が鳴り渡りすさまじい嵐となりました

さすがの姉妹もこれには驚いて 互いにしっかり手を握り 励ましあって我が家をさしてかけだしました

このとき 南のほうからひとかたまりの暗雲が現れて うなりとともに二人の方へ向かって突き進んできました
あっと思うまもなく 二人の姿は跡形もなくなくなってしまいました

そして二人のいた近くの田の中に大きな岩が どっかと姿を見せていたといいます
かわいそうに姉妹は この大岩の下敷きになってしまったのでした

村の人たちはこの姉妹の死を哀れんで 岩の上に祠を建てて 二人を祀ったといいます

それ以来 石の上の祠のことを おいしがね(大石鐘) と 呼ぶようになったということです


 

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方外院の千匹絵馬

 

下部町の瀬戸地区にある竜湖山方外院は 甲州三十三観音霊場のうち第二十七番にあたるところで この寺の本堂正面に千匹の馬を書いた大絵馬のあることで知られています

大絵馬は あがり端の鴨居に一杯掲げられているもので その大きさといえば 横19.42メートル 縦2.24メートルで 縁は黒塗りになっています
およそ日本一の大きさの物といえましょう

この千匹絵馬の奉納のいわれは 江戸時代の末にあった安政の飢饉のおりに 稲の不作を嘆いて観音様に祈願した信仰深い老人がいて あるとき 
「馬の霊が飢えて稲を食い荒らすので各地から一人一匹の馬を奉納せよ」
との霊夢を見ました

そこで老人は村人にこのことを告げて 生きた馬の献上はできないので絵に描いた馬を奉納することにしたところ その翌年からたちまち豊作がかなったと伝えられています

この大絵馬に千匹の馬を描いたのは茨城県安井村(現東茨城郡岩間町)の 天麗という人で 天麗の手により大絵馬の製作が始まったのは彼が65才の時であったといわれます

またその絵馬の奉納に協力した人々は近郷近在はもちろん 甲府あたりや駿河の国の人々までに及び 当時交通不びんの時代まことに大事業であったことがうかがわれます
大絵馬が奉納されてからは 寺の例祭日には普段 荷運びや農耕に使われていた馬に きれいな飾りを施して参詣させたという風景も 近年まで見られたそうです



  方外院の如意輪観音

方外院の本尊 如意輪観音にはまた こんなお話があります
古記によるとかつては 「本栖湖観音」 と呼ばれ 本栖の赤坂というところにあったそうです
その頃 武田信玄がこの観音に深く帰依し 本栖の地頭に
「ここは草深いので良い場所に移せ」
と命じたそうです

地頭は武田滅亡後に本栖西岸の長崎に さらに丸山に移し 最後に瀬戸に移されたのは慶長二年(1597)で ここに穴山梅雪の寺領があったためだといいます


言い伝えによると 信玄が三河へ出陣のおり 赤坂の地を通ると雷雲風雨で一歩も進むことができなくなったという
みると湖畔のかなたに淡い火影があったので信玄がその地にたどり着くと 笑みをたたえた如意輪観音が安置されていたという
信玄がこの観音様に戦勝を祈願するとたちまち雷雨は晴れ 無事三河に出陣したといわれています


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龍厳渕の伝説

 

丹波山村所畑に龍厳渕といって 昼までも薄暗く 大きな岩の下で流れが渦を巻いて恐いような所がありました

その渕の上に 一軒の家があり 「ひめ」 という名の美しい娘がいました

ある夜 若い男が現れて 娘を嫁にと毎夜来ては両親に頼むのでした
しかし この近くで見かけない男なので両親は返事をためらっていました

いったいあの男はどこから来るのだろうと ある夜家の人が後をつけてみると 驚いたことに男は蛇となって 坂をすべるようにして 渕の中に消えてしまいました
しかも翌朝になってみると 麦の畑と草むらに一筋の線が描かれていました

家の人はこれは大変なことになるかもしれないと ひそかに娘をよそへ嫁に出しましたが その娘はまもなく病気になり とうとう死んでしまいました
両親はなくなく娘のために墓を立て 墓の側に椿の木を植えてねんごろに弔いました

ある朝のことです
両親が墓へ行ってみると一匹の蛇が椿の木に巻きついたまま死んでいました
両親はその蛇があのときの蛇だったのかと知り これほどまでに娘を慕っていたことを哀れに思い 「ひめ」 の墓の横に手厚く葬ってやりました

時が流れて椿の木も大きくなり 真紅の花をつけるようになり 渦巻く渕の流れに花びらを落とすまでになって 花は毎年咲き続けました

今では その龍厳渕も 奥多摩湖の湖底に沈み 水面に山影を落として湖面にはさざ波がゆれています


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