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武田信玄生まれる

 

武田信玄は 甲斐の守護大名 武田信虎の長子として大永元年(1521)十一月三日 甲府館の詰め城・積翠寺(要害山)城に生まれました
幼名は太郎
信虎は合戦の勝利を願って別名 勝千代と名づけました

 

相田淵

桐の木川は」須玉町大豆生田(まみょうだ)の南部で 塩川と合流して深淵を作っています
このよどみを相田淵と呼んでいます
台上の相田集落に隣接しているからだと言います
淵は深さ約三十メートルにも達し 紺碧の水をたたえていました
時に水死人もあったので魔の淵とも呼ばれていました

明応年間(1492〜1501)このあたりは大小の流石が累々として 氾濫の激しさをまざまざととどめていました
その頃 穴山村久保の人々は相田淵に大竜が現れて暴れだしたので 仕事も手につかず 恐れおののくばかりでありました
そんなさなかに回国の行者が村にやって来ました

村人はさっそく行者にお願いして 竜をとり鎮めようとしました
行者は
「わしも日本七十余州を行脚しているが 珍しい話じゃ ともかくその大竜とやらの正体を見届けよう」

と 広い川原を通って相田淵に立ちました

どす黒い水面は何の異変もありませんでしたが やがて水面に大粒の泡立ちがして 大竜が踊り出て襲いかかろうとしました
常人なら肝を冷やすところでしたが このことを察していた行者は 右手に香炉を差し伸べて 蛇の嫌う煙をもうもうと大敵に放ちました
このため大竜は目を瞬いて淵に沈んでしまいました

遠くで眺めていた村人は 戻ってくる行者に頭を下げ 感謝しました

行者は
「あれはまさしく大竜だが 何かものありげに見えた わしも修験者 一刀のもとに切り捨てる自信はあったが 殺生してはならぬ身の上 後はお主たち よき思案をなされよ」

と言って 立ち去りました

村人たちは相談の結果 これが解決は国主武田信昌公(信玄より三代前)に嘆願し 村名主から書状を差し出したところ 信昌は
これは武力で征することではなく 法力で治むべきた」

と言って 近くの満福寺の住職に命じて 仏徳で済度せよと命じました

これを受けて住職は相田淵に寄って一心に祈祷を続けましたが 大竜の荒れ狂いは治まらなかったので住職はその由を国主に報告しました
信昌はそれならばと 文亀二年(1502)に亀沢天沢寺(中巨摩郡敷島町)二世の明江徳舜和尚に命じました
徳舜は弟子たち十人を従え この淵辺に祭壇をしつらえ大祈祷を行いました

ある晩 竜女が徳舜に
「我は三年前の大地震に妊娠の身で河岩の間に挟まれ 苦悶いたしました いま徳舜の功徳によって安らぎを覚えました これから満福寺の裏山へこもり 子供のない者には授け 出産にも安きを与えて 労に報いよう」

と竜女は言いました

これを聞いた徳舜は 安堵の胸を撫でて直ちに国主に報告しました
信昌は非常に喜び 満福寺を曹洞宗に改宗させ 徳舜を開基として 竜のゆかりをもって『大竜山満福寺』と名付けました

時は移り 武田信虎は 大井夫人と結婚しましたが 八年間も子供がなかったので 夫人は心配して満福寺の竜神に祈ったところ まもなく受胎し信玄が誕生しました

信虎は大いに喜んで 土地若干と詩文など寄贈感謝したと言われます

この寺はそれ以来 お産の神として名をなしました

相田淵のあたりも 幾星霜の間 河川の氾濫で流れの変化はありますが 不思議にも淵の原形はとどめて 魚族の棲みかとなっているそうです

ちょっと寄り道・・・ 大井夫人はこちらから

  満福寺

満福寺は武田信武の五男義武(穴山四郎)が 逸見郷の重要拠点であった「穴山」を領し 地名を姓として「穴山氏」を名乗りました

この穴山氏の菩提寺として建立されたのが満福寺です

明徳三年(1392)穴山満春が甲斐河内(峡南地方)に移るとともに一時期衰退しましたが 伝説にもあるとおり 敷島町亀沢の天澤の二世・明江徳舜を中興開山として文亀二年(1502)復興されました
さらに穴山氏の中で最も名高い穴山信君(梅雪)によって寺領の寄進を受け 菩提寺として栄えてきました

本堂裏山には穴山氏の墓があり これは市指定文化財になっています
寺記によると信君とありますが 墓碑は始祖義武らの墓とみられています

 


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夢見山

あるとき 駿河の今川氏が 大軍を率いて甲斐の国に攻め込んできました
しかし甲斐の軍勢は飯田河原で見事これを打ち破り 信虎は館近くの小高い山で戦勝祝賀の宴を開いていました
山の上ですっかり酒に酔った信虎は 良い気持ちになって うとうと居眠りをはじめました

すると 夢の中に一人の女が現れました
「今 奥方様が男の子を産み落とされました この子こそ曽我五郎時致の生まれ変わりでございます」
と言って 消えてしまいました

その時 城中より若君誕生の報告が来ました
戦に勝ったこともあって 勝千代と命名されました(後の信玄)

ところが 勝千代の右手が開きません・・・

それより前・・・

天桂和尚が富士の麓を通られた時 まだその時間でない筈なのに にわかに日が暮れ 一つの草庵に宿を乞うと夫人が出てきて
「ただ今夫は留守ですが しばらくお待ちください」

と言うとまもなく 甲冑をつけた武士が帰ってきました
夫は
「我は曽我十郎祐成である 弟 曽我五郎時致は在世のとき 箱根にて誦経持仏の功徳により 今 甲州の大守の子として生まれた 我は作善なく苦患がある 願わくば信虎へ告げて 法華経一万部を読誦給わりたい 
その印に家宝の目貫一片を渡す もう一片は時致の右手に握っている あそこに大泉という池がある この水で手を洗えばその手が開くだろう」

というや否や 姿が消えてしまいました

天桂和尚はそれより竜王村へ来て慈照寺に止宿しました
信虎から招かれて 富士の出来事を語りました

そこで 大泉の池の水で勝千代の手を洗うとたちまち開き 目貫が手にありました
富士の麓で渡されたものと合わせてみると一つのものでした

この池は 山の影で富士は見えませんが 大泉には富士の影が映ったと言います
これによりこの流水を富士川と名付け 信虎の眠った山を夢見山と言うようになりました

信虎はすぐに禅院を創営し 大泉寺と名付け 天桂和尚を開山としました
そして 頼まれた通り 法華経一万部の読誦を営みました
曽我兄弟の位牌は今もあり 宝物も種々あるそうです



  大泉寺

大泉寺は大永元年(1521) 武田信虎が開基 天桂禅長を開山として開創された禅寺です

信虎 信玄 勝頼の三代の帰依は厚く さらに浅野家 柳沢家の庇護を受けて繁栄したそうです

御霊殿裏には信虎 信玄 勝頼の墓があります

この大泉寺には 訪れたことがありますが 信玄出生に関する伝説でもあるので ここで紹介しました

 

 


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天神の祭礼

積翠寺には菅神(菅原道真の祠・天神社)の祠があります
伝えられるところによれば むかし武田信虎が今川氏のために攻められました

そこでいったん妻子などを積翠寺の後ろの要害山へ隠しました

夫人がその麓のいたってにわかに産気づき 生まれたのが信玄であります
その際 産湯を使った場所を後に粗末にさせないように 菅廟を安置したといわれます
毎年正月二十四・二十五日に祭りが行われ 近村からことごとく人が集まり 大盤振る舞いをするとのこと



  積翠寺

開山は行基 夢窓国師の弟子竺峰(じくほう)が中興したといわれます

境内に泉が湧き出ていて 巨石から滝になっていたところから もとは「石水寺」といっていました
今の「積翠寺」となったのは中世になってからだそうです
そう言えば 甲陽軍鑑にも石水寺物語と書かれていますよね

ちょっと寄り道・・・ 積翠寺はこちらから


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