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津久井三姫物語

 

その1 串川姫

津久井町鳥屋の道場という部落に御屋敷という地名が残っていますが、昔、この道場部落に一人の凛々しい若者がいました。

若者は横笛を好み、夜毎に岸辺に立って笛を吹いておりました。

ある月夜の晩、若者は夜露を踏みしめながら笛を吹き、足の向くままに川上へと向かって行きました。

笛の音は、美しいせせらぎにのって川下へと流れていきます。

若者はさらに川上へ行き、御屋敷という所にある、橋の上で、なにげなく足を止め、静かに笛を吹き始めました。

何時たったのでしょう、いつの間にか若者の後ろに、若い美しい娘が立っています。

娘はじっと笛の音に聞き惚れていました・・・この娘は、御屋敷御殿の姫君だったのです。

調べは川面に流れ、せせらぎの音ととけあって、二人の間には恋心が芽ばえました。

しかし、二人には身分の隔たりという壁がありました。

御屋敷殿の姫、川下の部落の男子・・・二人は自由に会うことが許されませんでした。

人目を忍んで会ったある夜、若者は自分の顔を彫った金の縁どりの櫛を、姫に贈りました。

姫は大変喜んで、その櫛を肌身離さず大切にしていました。

その櫛を眺めては、恋しい若者の面影を偲んでいたという事です。

ある晩、会えない日々の悲しさから、姫は初めて出会った橋の上に立ち、

「この川下に行けば、あの人がいる」

と、思うと、姫はその場にうなだれ、膝を下りました。

 


串川

と、その時、、、ポトリ、、、若者から贈られたあの櫛が、川の流れに沈みました。

川の流れが強く、大切な櫛はたちまち行方が分からなくなってしまいました。

姫は、二人の恋もこの櫛と共に流れ去るような気がして、泣き、悲しみました。

このことは、道場の若者の耳にも入りましたが、若者とて、まさかこのことが、二人の恋を断ち切るものとは思ってもみませんでした。

気が狂うばかりに川を捜す姫の姿は、人々の目に痛ましく映り、それ以来この川は悲恋の櫛に因んで、誰言うとなく櫛川(串川)と呼ばれ今日に及んでいるという事です・・・

なお、この櫛は、下流の旧湘南村小倉に流れ着いたのか、櫛を祀った小櫛堂が在ったと伝えられています。

 

その2 折花姫

この折花姫伝説については色々な説があるのですが、ここでは小山田八左衛門についての伝説を紹介します。

天正十年(1582)三月、織田・徳川連合軍に追撃され、天目山の麓で武田勝頼は自害、武田氏の家来達は散りぢりとなりました。

この時、側近の一人であった小山田八左衛門は、身内の者と脱出して奥津久井に入り、道志川をわたり、神の川をさかのぼって丹沢山中に逃げ住んでいました。

しかし、このことが追っ手に知れて、最愛の姫(折花姫)に、翁と姥をつけて山のほうに逃がし、奮戦しましたが、全身に矢弾を受け、一族と共に最期を遂げました。

「この小山田八左衛門行村の墓といわれるものが、津久井青野原にあります。

小山田八左衛門とは、信玄の旗本の小山田兵衛尉信茂の従兄弟で、近習を経て隊長となり、『甲陽軍鑑』の中にも信玄麾下の旗本の若手としてその名が見えているようです。

自然石には (勇心良誉信士 天正十壬年四月九日 甲州武田家人小山田八左衛門) と刻まれているとのこと」

追っ手は更に三人を追い、後ろから矢弾を撃ちかけたので、姥は姫の打掛をかぶって敵を誘い、反対側に姫を逃がし、自らは矢弾にあたって息を引きとりました。


小山田八左衛門行村の墓

姫は手向けの念仏を唱えつつ、翁と共に慣れない山道を登って行きました。

姥にだまされた追っ手は、やがて渓谷を登る二人を見つけて矢弾を射ち、そのひとつは頼みにしていた翁の背中に当たりました。

もうこれまでと、翁は姫を逃がし、姫の後姿に合掌して敵と渡り合い、壮烈な死を遂げました。

姫はやがて追っ手の重囲におちいり、自ら懐剣で喉を貫いて無念の最期を遂げました・・・

今でも、この姫の名をとった神の川の周りには、姫の悲しい物語にちなんだ地名が多く見られます。

じじ宮(翁の死んだ所)、ばば宮(姥の死んだ所)、姫次(姫を従者に渡した所)可愛峰(注:カアイオネと読みます、姫を翁が逃がした所)・・・

そして、こののち、姫の死んだ地に 「折花宮」 を祀りましたが、今でも姫の霊魂がさまよい、宮の木を切ると祟りがあると土地の人は恐れているということです。

 


折花宮

 

その3 雛鶴姫

南北朝の時代・・・後醍醐天皇の第一皇子、護良親王と寵姫・雛鶴姫のお話です。

その頃の一般庶民の生活は大変惨めなものでした。

長い間の武士の争いで国内は乱れ、地震、大洪水、飢饉等・・・しかし、武士達は生きる糧を勝手に蓄え、飢えに悩む民衆の事など、考える術さえ持っていませんでした。

後醍醐天皇の民衆の平和を望む志を奉じ、泰平成就の願い叶えかけたのも束の間、護良親王は足利尊氏に捕らえられてしまいました。

その時、尊氏の弟、足利直義が鎌倉に居て、捕らえられた護良親王を土牢に幽閉したのです。

建武二年、北条時行・鎌倉奪取の戦いに、足利直義は敗れます。

鎌倉を逃げ延びる途中、直義は家来の淵辺義博に命じ、護良親王の首をはねさせました。

護良親王に斬りかかった義博の刀の刃先を、豪気の護良親王は、噛み折って、御首をはねられても咥えて離しませんでした。


九ヶ月間、この岩窟に幽閉された


雛鶴姫が此処から御首を・・・

その形相に怯え、大罪を犯したことに恐れをなした義博は御首を捨てて、逃げてしまいました。

護良親王に使えていた雛鶴姫は、急をきいて駆けつけ、従者と共に護良親王の守護神の天神像を奉持し、御首を拾い、鎌倉を逃れました。

雛鶴姫の一行は追っ手を避けて大山にこもり、さらに甲斐の国へ逃げるべく、津久井の青山に出ました。

そのとき、姫は護良親王の御子を宿していましたので、しばらくこの地に留まり、その間に護良親王のため供養塔(千部塚)を建てました。

 

さらに一行は追っ手を逃れるため、甲斐の秋山、無生野まで来たとき、折悪しく雛鶴姫は産気づいてしまったのです。

供の者達はやむなく、木の葉を集めてしとねを作り、そこを産所として、姫は皇子を産みました。

しかし、時は師走、吹く風冷たく、その寒さと疲労の為に供の懸命な祈りも空しく、姫も皇子も亡くなられてしまったのです。

あまりの悲しさに、供の者達は姫と皇子の亡骸を近くに葬り、護良親王の御首及び錦旗を甲斐の石船神社に祀りました。

「雛鶴峠」 は、雛鶴姫が愛する護良親王の御首を抱き、涙ながらに越えた峠を、

「無生野」 は、宿る家もなく、姫も皇子も短い命を散らせた無常野のことを指して名付けたと伝えられています。

そして、山梨県秋山村には無生野念仏というのがあって、これは護良親王の悲劇にまつわる人々の魂を鎮めるために、始められたそうです。

 

護良親王を奉斎する鎌倉宮

土牢や御構廟 (御首を置いたとされる処 )が拝見できます

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