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一周年記念

この一年間、掲示板伝説に書き込み頂いた伝説です。

紹介出来ない書き込みもあったかと思いますが、温かいお便りは忘れません。

ふと、このサイトを思い出してくれた時、風のように、気ままに、お便りくださいませ。

 

 

投稿者:金吾さま 投稿日:2001/01/29(Mon) 15:03 No.153

寅年ご開帳といえば、小田原の水之尾毘沙門堂(後北条時代の開基)も12年に一度の寅年四月初寅日に開帳されます。
社は大岩にかぶさるように造られている狭いものですが、その大岩に毘沙門天が浮き出ています(ご開帳行ってきました〜。
伝説では、北条時代にその石を切り出そうとした所、血が出て中止をしたとあります。
またそれに関係するのかわかりませんが、近年、毘沙門堂近くの水之尾陣場跡をとある建設会社が掘った所、
工事関係者に死者や怪我人が続出した為、中止されたままです。
でも毘沙門天さん自体は昔は有名で、習慣として今でも市長が毎年お参りきますし(選挙のときはマジ顔でした)、
戦前は結構賑わったそうです。
現在は、といいますと近くに競輪場があるクセにあまり知られておりません。
でもいい所です。
あ、そうそう、今でも毎年初寅参りに来られる方々がいて、厚木の方の講の人達です。
由緒は分からないんですが・・。

小田原梅祭りももうすぐ始まります。
特に35000本といわれる曽我の梅林は1年で一番賑わう季節です。
満開の時には、我が家にも梅の香りが飛んでくるくらいです。
2月11日はメインイベントの「流鏑馬」が行われます。
そういえば、曽我兄弟の弟・五郎は生まれ変わって信玄公になったとか?

もうひとつ付け足すと、小田原城中の梅などは曽我の近く国府津の宝金剛寺
(北条五代記なんかですと国府津の護摩堂とあるのがそれです)の境内から移されたものだそうです
(今あるのは違うと思いますが)。
また、小田原の護摩堂と呼ばれる方の蓮上院(市内栄町)のほうには生前、黄梅院の平産を祈願して地蔵堂が建てられた記録があります。
それに付属する北条家文書2通も残っておりますが肝心の地蔵像は不明(度重なる火災の為、記録等の多くが焼失)です。
住職に案内されてそれらしき仏像は拝見したのですが、私に分かるわけがありませぬ。

(金吾さまとは、お松さま、榧木さまのサイトでもお世話になりましたね〜)

 

曽我兄弟 投稿者:たまこさま 投稿日:2001/01/30(Tue) 15:56 No.167

伊豆東海岸は、宇佐美、伊東、河津、と下って来ます。
みな伊東氏一族の名前です、曽我兄弟の父は「河津三郎」と言い、相撲の決まり手”河津がけ”の考案者でもあります。
力自慢は息子にも遺伝して? 河津には五郎が持ち上げたと言われる力石があります。
昨日、夫がそれにトライしたそうですが、「信じられん」と言っておりました。
もっとも年ですからね。(^_^;)
河津駅前には曽我兄弟の像が立っています。
父を討たれた二人は祖父の伊東祐親により曽我に引き取られました。
新しい父には馴染めなかった様です(誰だか忘れました)。
烏帽子親は北条時政でした。
領地争いに端を発するこの仇討ちは平将門の場合を思わせます。

(たまこさまは、かつて瀬谷に住んでいたそうです!)

 

養父は曽我祐信です 投稿者:金吾さま 投稿日:2001/01/30(Tue) 18:18 No.168

こんにちは、たまこさま。
まさか、この掲示板で曽我兄弟を知ってらっしゃる方にお会いできるとは!
曽我の里は我が家の近く、小さい時から城主の北条・大久保氏等と共に曽我氏の話に接してきましたので、凄く愛着ありますね。

所領争いが元で、叔父の工藤祐経に父(河津三郎祐泰)を殺された兄弟は母満江御前と共に、祐親の義理の甥にあたる曽我の太郎祐信の元に入ったのです。
これは、後の障害になることを恐れた工藤祐経に幼い兄弟が命を狙われる事をあんじた祐親が手を打ったのだと解されています。
曽我の庄は、周囲を中村党(土肥、土屋氏等)や三浦党(岡崎、真田氏)に囲まれてましたから。
結果的にこれは成功で、後に祐親が石橋山の戦いで反頼朝軍の先鋒になった事から、
伊藤氏は潰され頼朝方についた工藤氏がその所領を継ぐことになったからです。

でも、幼い兄弟にとってはやはり寂しかったようです。
嫡流であったのが分家筋の養子となったこともあるでしょうし、その曽我氏自体も当初は反頼朝派であった為、取り潰しは免れたものの、開幕後は頭が上がらない立場でしたから。
曽我の山に登れば、伊豆も鎌倉も見えます。
名門の出なのに世を忍んで過ごさねばならない立場では、やはり仇の工藤を恨んでしまうという若者の気持ちも想像に難くありません。
しかし、その仇討事件も北条氏や御家人武闘派の者たちによる官僚派打倒に利用されたという側面があるようです。

兄弟が人生の大半(といっても20年もありませんが)を過ごした曽我の里周辺にも、多くの伝説や史跡が残っていますよ。
弟・五郎だけでなく兄・十郎や虎御前にゆかりのもの、また曽我氏館跡など。
数ある兄弟の墓も、曽我のが埋葬地です。
もうすぐ、梅の時期ですから、曽我にも一度足をお運びください!

でも、それにも増して多いのが十郎愛人の虎御前の墓ですよね。
甲斐の国にも、芦安村に虎御前の墓と伝わるものがあったのには驚きましたけど。
プラス、芦安村って甲斐犬の故郷だったんですねー。
この間、ハイキング行った時知りました。

 

投稿者:奥野さま 投稿日:2001/01/31(Wed) 21:13 No.174

伝説の分野に絞って歴史にアプローチするというのは面白い試みですね。
他地域ではなかなか知り得ない話も多く、過去に対してそれぞれの土地でどのようなイメージが持たれているのかがよく分かります。
さすがに武田信玄(及び武田氏)に関する伝承が多いようですが、小生の地元である遠州でも、実は武田関連の言い伝えがあります。
例えば三方が原の戦いのとき、徳川軍は「犀が崖」という沼地を前に布陣して多くの篝火を焚いたので、
夜になって追撃してきた武田軍は皆その中に落ちてしまい、そこを攻撃されたので多くの死者を出したという話。
その後同地には巨大な蛍が出現するようになったので、人々は戦死者の亡霊として恐れたのだそうです
(小さい頃に読んだ『遠州の昔話』という本に載っていました)
やはり徳川の地元だけあって、勝利したはずの武田軍にあまりいい役が割り振られていない感じですが。

(八王子オフ会では都合が付かず、申し訳ありませんでした)

 

犀が崖 投稿者:たまこさま 投稿日: 2001/02/01(Thu) 10:47 No.177

奥野さま初めまして。
(ご酩酊のマンノウォーさま、先を越して済みません、m(__)m)

(飲み会だったのかな、この日の管理人は・・笑)

同じ静岡県でも西の方は殆ど行った事がありません。
「犀が崖」の事は少し知ってました。 崖に落ちた武田兵の呻き声が聞こえたり、疫病が流行ったりしたそうですね。
それで地元の人は、死者の霊を慰める為に念仏踊りを始めたとか。
巨大な蛍の事は知りませんでした。(いわゆる、ひとだま?)。
ほんと、家康軍に良く書かれていて、「え?三方々原って負けたの」
と思う程でした。(^_^;)
旧くからの家臣が影武者になって命を落とした筈ですが、その後その家は取り立てて貰ったのでしょうか。

 

三浦半島No.2 投稿者:管理人・マンノウォー 投稿日:2001/02/03(Sat) 16:46 No.183

『するすみの井戸』
源頼朝の家臣である梶原源太景季(かげすえ)が、名馬「するすみ」に乗って、佐島という海岸の波打ち際にやってきました。
すると、名馬が渚に残した蹄跡の一つから清水がこんこんと湧き出しました。
村人はこれを「するすみの井戸」と名付け、この水を珍重したということです。
この井戸の水は、波打ち際にあってもまったく塩分を含まない真水だったそうです。
残念ながらこの井戸は埋められてしまい、現存していません・・・
横須賀市の西岸、中ほどに佐島マリーナがあります。
天神島、笠島という小島があって、小田和湾のあたりにあったのでしょうか・・・
こうして、伝承の地が無くなってくるのは寂しい限りです。

(ちょっと自分から・・・)

 

おぉ、摺墨ですか! 投稿者:金吾さま 投稿日: 2001/02/03(Sat) 22:38 No.184

頼朝から梶原景季に授けられた名馬でしたっけ?
南足柄市生駒には、足形社という小祠がありますが、地元の伝説では、「するすみ」はこの辺りの産だといわれています。
足形社にはその摺墨が押しつけたという足形石があります。
この辺りは実際、古来から馬の産地だったようです。大正時代までは、競馬も行われ
ていたようですし、地名にも駒形、駒千代と残っています。

そしてもう一つ、足柄峠から御殿場側の竹ノ下に向う道(戦ヶ入り線)沿いに「馬蹄石」というのがあり、
これは頼朝が富士の巻狩りに出かけた折、この地を通過した愛馬「摺墨」が脚に力を入れ、その為に蹄の跡がついたといわれています。

実はこの話、小田原にも同じモノがあって、市内入生田と山崎の中間に「馬蹄」があります。
それは旧村境の瀬戸沢という小沢の上に架けられた石橋の上にあり、これも摺墨の足跡だそうです。
それでこの橋を「駒留め橋」または「駒爪橋」と呼んでいたそうです。
ここでは昔、三軒ほど線香や香の花を売る店があり、旅人は足の痛みを和らげる為、香や花を供えて供養したといいます。

そしてさらにもう一つ、これは摺墨ではないんですけど、箱根・駒ケ岳の箱根神社元宮境内には、
昔、神が白馬にのって降臨された所の蹄跡として、「馬降石」と「馬乗石」があります。
「馬降石」の蹄跡の穴にある水は年中枯れた事が無いとも、言われています。

事の真偽はさておき、馬の蹄跡の石などに昔の人はどんな願いを込めたのか気になります。
また摺墨も広く人気があったんでしょうね。
でも、どうせならライバル「いけづき」の伝説も聞きたい所です。
曽我の梅祭には、流鏑馬で同名の「いけづき」という馬(木曽馬だったかな?)が毎年一番の力強い走りを見せてくれてますけど。

でも昔からの伝承の形見が消え去るのは、ホントに寂しいですよね。
こうして、少しづつ人々の記憶からも消えて行ってしまって良いのでしょうか。
大磯にあった「五郎の投げ石」というのも、地元では祟りがあるとして触られる事が無かったのですが、
近年、土地開発中に建設会社によって撤去されて運ばれてしまったそうです。

(馬の伝説、好きです・笑)

 

三増峠に関するもう一つのエピソード 投稿者:奥野さま 投稿日: 2月 3日(土)19時08分52秒

『宝が峰日記』は、津久井城の登山口にある土産物屋に行けばまだあると思います。
ただし、城の伝承に関する記述は実はそれほど多くはないです。それ以外の部分も面白いですけどね。

で、あのページで書き漏らしたものの中にも面白い伝承があったのでここに紹介させていただきます。
それは津久井城山の麓に広がる金原に残された「富士塚」で、
「富士山の見えるところで戦えば絶対に負けない」という信仰を持っていた武田軍が三増峠の戦いの前に築かせたものだそうです。
今でもお椀型の小山が残っていて、その上には「富士浅間大神」の碑が立てられているとの由。
いかな武田軍でも戦いの前にそんな余裕があったかは疑問で、富士信仰に関連した別の時代の遺跡では?
とも思われるのですが、面白い話ではあります。
甲州の人は富士山をこよなく愛するというイメージが他国でも定着していて、このような伝説に結びついたものかもしれません。

 

門松を立てない習慣 投稿者:八王子村日吉社史人さま 投稿日:2001/02/25(Sun) 00:47 No.261

昨夜は「武田伝説小話」を読みました。
この中に門松を立てない家来がいるという話がありますね。
御存知かとは思いますが、「遠野物語」の中にも似た話があります。
「遠野物語」の第24話に次の話があります。
「大同の祖先たちがはじめてこの地方に到着せしは、あたかも、歳の暮れにて、
春のいそぎの門松を、まだ片方はえ立てぬうちに早元日になりたればとて、
今もこの家々にては吉例として門松の片方を地に伏せたるままにて、標縄(しめなわ)を引き渡すとのことなり」
そして、第23話でこの大同家が甲斐の国より移り住んだとしています。
実際、中世に甲斐から移住した人々がいたようなのです。
門松に関しては「桐生の民話」に先祖の侍が自宅の門松の影から闇討ちにあったため、
以来その家では門松を立てないというお話がありました。
習慣というものは滅多に変化しないもので、人の異動によって各地に伝わるようですね。

(八王子にお住まいの八王子村日吉社史人さまです。松姫さまの地元ですね!)

 

Re: 門松を立てない習慣 投稿者:黄梅さま 投稿日: 2001/02/25(Sun) 02:50 No.263

「門松を立てない習慣」は甲斐の国内にもございます。
南都留郡秋山村です。
大塔宮護良親王の妃、雛鶴姫にまつわるお話が伝えられておりまして、お墓や雛鶴神社が。
親王の御首級を守って逃れた姫の亡くなった日が12月28日で、「松の下をくぐれぬ」とおっしゃったことから、門松を立てず、クヌギの木杭を立てた独特の正月飾りをするとのことです。
又、無生野(地名)の大念仏という民俗芸能(行事?)が伝えられ、3〜4年前に訪ねましたとき、ちょうど国の無形文化財に指定されましたとか。

さて、遠野物語にそのようなお話があったのですか。
早速読んでみます。

(甲斐の国にお住まいの黄梅さまです。色々情報をありがとうございました!)

 

信玄公は葡萄を食しておりまする 投稿者:黄梅さま 投稿日:2001/02/27(Tue) 01:38 No.280

ブドウの話題をふってくださったので、しゃしゃりでてまいりました。
甲州ブドウの発祥は二つの伝説に彩られております。
まず、勝沼町大善寺に伝わるものです。
718年行基が霊夢にあらわれた薬師のお姿を刻んで祀ったのが大善寺だと伝えられております。
この薬師如来像の右手にブドウを持っていらしたというもの。
ただ、現在はブドウをもっていらっしゃらないと大善寺で伺ったような・・・(いろいろな経緯がありまして・・・)
薬として伝えられ、薬園で栽培されていたのですね。

もう一つは、1186年、やはり勝沼町の雨宮勘解由と言う方が野生のブドウの中から変わったブドウを発見し、
苦心して改良の結果できたのが、甲州種ブドウだというものですが、
これにも、ちと矛盾が・・・ということで、歯切れの悪い黄梅にござりまする。

また戦国時代、武田信玄にブドウが献上され、大変喜ばれたというお話も伝えられていますとか。

(このお話は、伝説を訪ねて大善寺訪問のきっかけになりました。ありがとう、黄梅さま)

奥野様は遠州のお生まれの由。
遠州ではありませんが、三河生まれの医師、徳本が1615年頃、本格的に畑で作ることを勧め、棚づくりの方法を奨励したとあります。
私が歴史散歩をしておりまして印象に残っておりますブドウは、東京の小石川植物園(正式名称ではありませんね)にありましたメンデルのブドウです。え〜っという感じでした。
馬鹿の一つ覚えで、メンデルはエンドウマメって思っておりましたもの。
山梨にも、植物園から戴いたメンデルブドウがあり、秋には立派な房が実っていました。
帰国なさったら、ブドウの季節にぜひ甲斐へ。
お体にお気をつけて、いってらっしゃいませ。

(奥野さまは、現在モスクワにて活躍中です)

 

勝沼HPで見付けた事

ひかわじんじゃ
氷川神社
旧上岩崎、下岩崎、藤井三村の産土神で素盞嗚尊と国常立尊をまつる。
本殿は、十八世紀頃の建築とされ、随神門や神楽殿が備わっているのは勝沼町内ではここだけ。
神楽殿では、毎年祭の際、神楽が奉納される。
古来は岩崎氏の氏神であった。

(勝沼で大善寺と共に、行きたかった神社です)

 

投稿者:猛馬飼育係さま 投稿日:2001/05/07(Mon) 20:15 No.524

白布温泉開湯記
今から約700年前、出羽の住人佐藤常信はある時眼病にかかった。
笹野観音のお告げにしたがい山に分け入ってみると、湯が湧き出している場所があり、白斑のある鷹が腫れた目に湯をかけていた。
常信も湯で目を洗ってみると、やがて病は完治した。
この故事にちなんでこの温泉は白斑(しらふ)の鷹湯と名づけられ、その後白布の高湯、白布温泉と呼ばれるようになったという。
・・・かなり無理やりですな・・・。

立石寺開山記
出羽に赴いた慈覚大師円仁は、このあたりの豪族で猟師でもある磐司磐三郎から、寺を建立するための用地として山を一つ分けてもらった。こうして建てられたのが立石寺である。寺の前の河原には、この上で二人が対面したという巨岩(その名も対面石)が残っている。また磐三郎はこれを機に今までの殺生を悔い、猟師をやめて仏門に入った。これを喜んだ鹿達の踊りが、この付近の鹿(しし)踊りのルーツであるという。

(オフ会ではいつもリーダー的存在で、いつもお世話になっております。当サイトの名軍師です!)

 

不死(しんずら)清水 投稿者:猛馬飼育係さま 投稿日:2001/07/01(Sun) 23:00 No.699

南箕輪村の不死清水の話のあらすじが分かりました。

昔ある所に村人の世話をよくする長者がいた。
彼がある時不治の病にかかった。
死期が近いことをさとった彼は、「最後にあの水が飲みたい」と周囲の者に言う。
その水とは以前彼が旅の途中で飲んだ湧水だった。
長者の家の使用人がその水を汲んで来ることになった。
彼は「長者様はもう死んずら(死ぬだろう)・・」と悲嘆にくれながらも、「でもその前に、なんとかその水を飲んでもらわねば」と道中を急ぐ。
そして無事水を汲んで帰りそれを長者に飲ませると、不思議なことに長者は間もなく病から回復し、その後も末長く生きたのである。
以後この湧水は“不死清水”と呼ばれるようになったという。

 

 

投稿者:うーろんさま 投稿日: 2001/07/08(Sun) 23:07 No.712

「初雁の杉」
川越城で有名なお話といえば・・「とおりゃんせ」ですよね?
川越城内にある三芳野神社がこのわらべ唄の発祥の地としていわれてますが、ここって平安時代の創立だとか。
「お城の天神さま」ともいわれてまして、この神社のうらにみごとな杉の木がありました。
これを「初雁の杉」と呼んでました。
むかし、北の空から飛んできた初雁が、きまってこの杉の上で「ガアガアガア」と三度鳴きながら三度ぐるっとまわり、南のほうへ飛び去りました。
これは毎年のことで一度も忘れたことがなかったそうです。
そしてそのことによって、川越城のことを「初雁城」と呼ばれるようになったということです。
このあたりは三芳野の里ともいわれ、平安時代の歌物語である「伊勢物語」に、次のような歌があります。
 三芳野の田面の雁はひたぶるに
    君が方にぞよると鳴くなる
 わが方によるとなくなる三芳野の
    田面の雁をいつかわすれむ
                 「川越の伝説」より

また川越城には人身御供とかかなしい伝説も残っているようです。

(うーろんさまとは、競馬場でもお世話になっております・・・笑。 楽しいかたですよ〜)

 

馬場美濃守の墓 投稿者:奥野さま 投稿日:2001/07/24(Tue) 17:43 No.753

ところで、また長篠について。長篠資料館で買った小冊子には、昔(戦前)にこの地方を訪れたという詩人の作品が載せられていました。
内容をかいつまんで紹介しますと、
「麦を刈る農夫に、馬場美濃守の墓の在処を尋ねて返答がなかった。
重ねて問うと、農夫答えて曰く、美濃守様を呼び捨てにした故に教えなかったのだ、と。
美濃守様の奥津城は何処と問えば、農夫は丁寧に教えてくれた。
墓を訪れてみると、近郷の子供たちが、これが日課だといいながら掃除をしていた。
敵地の領民にも慕われながら、名将・馬場美濃守は静かに眠る」
だいたいこのような内容でした。
現在は確かめていませんが、かつて馬場美濃守の墓は長篠の人々に大切にされていたようです。
しかしこの前紹介した武田勝頼についての伝説もそうですが、どうも長篠の人々の間では、武田軍に関して好意的な見方が強いような気がします。
ちょっと意外でした。
まあ、この地方はもともと武田と徳川の両勢力によって争われていた場所だから、武田びいきな伝説があってもおかしくはないのかもしれませんが。

 

甲賀三郎と春日姫 投稿者:猛馬飼育係さま 投稿日:2001/11/06(Tue) 22:23 No.1343

甲賀三郎と春日姫の伝説についてお伝えします。

昔近江国甲賀の里に三郎頼方という若者がいた。
彼は狩猟が好きで、朝から晩まで弓矢を持って狩をしていたが、やがて都に上り役人として出仕することになった。
そして奈良の三笠山の麓に勢力をはる豪族の娘春日姫と結婚する。
ある時三郎は2人の兄とともに山中で狩をしていたが、彼らの謀り事にかかり洞窟に閉じ込められてしまった。
その洞窟を奥へ奥へと進んでいくと、やがて地底国へとたどり着いた。
彼はこの国の王や王女に気に入られ、末長くこの地で暮らすように勧められるが、丁重に断り浅間山の火口から地上へと戻る。
地上帰還後自分の姿が大蛇(もしくは竜)に変身していることに気付いた三郎は嘆き悲しむ。
けれどもある霊泉の水を飲むと元の姿に戻り、三郎を捜し求めて諸国を旅していた春日姫とも蓼科山の山中でめぐり会うことが出来た。
そして2人は諏訪湖のほとりにたどり着き、ここで三郎は諏訪上社の男神、春日姫は諏訪下社の女神として祀られたのであった。

この伝説は、甲賀の地に移り住んだ諏訪大社の社家達により形成された話だといわれています。甲賀忍者として知られる望月氏は、信濃の神氏族の望月氏と同族だといわれてますし。

(今度、諏訪へ行く為に教えていただいた伝説です、楽しみが増えました)

 

● 猛馬飼育係さまに教えていただいたこと。

(1)天津速駒の伝説

南アルプスの甲斐駒ケ岳山頂に住むという 背中に翼の生えた天馬です
建御雷命(たけみかずちのみこと、漢字は間違っているかもしれません・・)
の霊から生まれたとされています

駒ケ岳の麓には尾白川渓谷がありますが 天馬の尾が白かったことから川の名がつけられたといいます(安易なネーミングですな・・)

渓谷は 川岸の花崗岩の白さと 碧緑の水の色のコントラストが大変美しい所です

ただ自分が書いた内容で間違ったところもあろうかと思います
そうなりますと大変申し訳ないので より詳細を知っている人に御確認下さい

尾白川渓谷散策路の入口の吊り橋のたもとに 竹宇駒ケ岳神社があります 
そこの案内板に 神社の由来や天津速駒について解説されていました

 

(2)有鹿姫伝説

 今から約五百年前、愛川の小沢というところに金子掃部助(かねこかもんのすけ)という武将がいました。
金子掃部助は、関東管領山ノ内上杉家の家来、長尾景春が起こした戦に加わりましたが、武運つたなく破れ、小沢城を捨てて敗走しました。
 この掃部助と奥方の間には、美しい姫君がいました。
姫は早くから有鹿の地、すなわち海老名の河原口に住んでいた郷士の青年と婚約中で河原口にある海老名館に来ていましたが、
「小沢城危うし!」といううわさに、急いで小沢に戻りました。

 しかし、時すでに遅く父は戦死、母は行方知れずと聞き、すっかり生きる望みを失いました。
覚悟を決めた姫は、見苦しい姿を人目にさらしたくないと、薄化粧をして、まだ燃えている小沢城を後に天に向かって手を合わせると、
ざぶん!と相模川に身を投げたのでした。
 するとどうでしょう。
美しかった姫の体は、たちまち恐ろしい大蛇に変わり、大きくうねりながら下流に向かって泳ぎ出しました。
途中、六倉という所で大きく身震いすると、相模川の水が舞い上がり、中津の原に大きな水たまりができました。

 さらに水しぶきを上げながら進み、河原口に近ずくと、姫は再び人間の姿に戻り、息絶えて有鹿神社の裏の河原に打ち上げられました。
 神社の氏子らは、海老名に地嫁ぐ日を夢みていた姫の死を悲しみ、せめてもにと「有鹿姫」の名を贈り、神社の片隅に、その亡きがらを葬りました。
現在、有鹿神社と有鹿小学校の間には、若くして散った有鹿姫をしのぶ碑が建てられています。

(こどもえびなむかしばなし第4集より)

 

(3)島津氏と、頼朝のお墓

島津氏初代惟宗忠久は、源頼朝と有力御家人比企氏出身の女性丹後局との間の子であるというものです。
北条政子の嫉妬を怖れた丹後局は鎌倉を逃れ、摂津の住吉大社で忠久を産んだそうです。
この時いくつもの狐火が現れ母子を守り、また雨も降っていたため、島津氏は狐を守護聖獣とし、雨を吉事の前兆と考えたそうです
(これを島津雨という)。
その後丹後局は下級貴族惟宗広言と再婚し、忠久は惟宗氏の養子になったというのです。

しかし実際には、忠久が頼朝の落胤だという可能性は極めて低いそうです。
彼は下級貴族惟宗忠康の息子で、同族の惟宗広言の養子となったという説が有力らしいです。
彼は摂関家近衛家の家司となり、近衛家領島津荘(現在の宮崎県都城市周辺地域)の荘官となったそうです。
また頼朝に招かれて鎌倉に下って御家人となり、同荘の地頭、薩摩・大隅・日向の守護に任命されたということです。
惟宗氏は朝鮮半島からの渡来豪族である秦氏(秦公氏)の末裔であり、
秦氏は稲荷明神を信奉していました。
ですから秦氏の子孫である島津氏も同神を守護神とし、神使である狐を守護聖獣にしたようです。

なお、島津家では家祖忠久が頼朝の落胤であるという説はかたく信じられていたようで、
江戸時代の薩摩藩主島津重豪は鎌倉の法華堂(頼朝の廟所)跡地付近に頼朝の墓石を建立し、
またすぐ近くに惟宗忠久の墓も整備したのです。
さらに彼らの墓のある丘陵地は島津家の所有となり、その状態はつい最近まで続きました。
そして確か今年、島津家現当主島津修久氏は、この地を鎌倉市に寄贈する意志を表明したそうです。

 

● 金吾さまに教えていただいたこと。

(1)新羅三郎義光吹笙塚について

新羅三郎義光吹笙塚(そう標柱には彫られています)

後三年の役の時 奥州の清原清衡・家衡らを平定に向った八幡太郎義家を応援する為 かけつけた弟・新羅三郎義光は足柄峠で宿陣していた

義光は京で豊原時元から笙の極意を授かったほどの名人であったが 奥州へ行けば己も戦死し笛の極意も絶えてしまうかも知れぬと 随身していた時元の息子・時秋を呼び 笛の極意(秘曲)を伝授しました

そして どうしても奥州に行くという時秋を京に帰しました(『時秋物語』など)

現在 峠には義光が時秋に笙の極意を伝授したと伝わる石が 「笛吹塚」 として残り 
毎年9月第2日曜には 「笛祭り」 が行われ雅楽の演奏などが行われています


(2)足柄城

「笛吹き塚」 の真正面 足柄峠最高地点が城の本丸です

戦国時代 駿東と甲州に対する備えとして後北条氏が整備拡張したもので 城主には佐野(北条)氏忠が良く知られている

城は特に武田氏の騎馬隊を意識して構築されており 峠に連なる尾根上の各ピークなども砦として連携させた広大なもの 

『鎌倉公方九代記』 や 『甲陽軍鑑』 には永禄12年に武田信玄によって 『寛永土屋譜』 には天正9年に武田勝頼により(同譜に「昌恒勝利を得たり」とある)落城されていますが 現在見られる遺構はそうした経験を元に拡充された最終期の姿です(天正18年の秀吉の小田原攻めで落城後廃城)

ここから見る富士山も格別です

 

「笛祭り」行ってみたい! 投稿者:黄梅さま 投稿日:2001/01/25(Thu) 00:29 No.124

足柄峠の笙に縁の地は以前から訪ねたいと思いつつ果せずにおりました。「笛祭り」があるのですね。
行ってみたいものです。
こういう情報とても有り難いです。
また、たまこ様が平賀姓について書いていらっしゃいますが、
このサイトの武田伝説小話にあります平賀源心を調べました折、甲斐の資料では
「ひらが」、信濃の資料では「ひらか」、現地の方は「ひらか」と清音で発音していると伺ったような。
そんなことを思い出しつつ、楽しみに読ませて戴きました。
今後共、楽しいお話、思いがけないお話などお教え戴きたく、よろしくお願いいたします。

 

みなさん、この一年間どうもお世話になりました。

日頃の感謝は、いうまでもありません。

ここには紹介出来ませんでしたが、たくさんのお便り、ありがとうございました。

こうして、改めて拝見させていただきますと、感慨深く、また感動したりもしました。

今後とも、末永くお付き合いくださいませ。

 

 

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