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信州伝説の旅 (松本)

 

牛繋ぎ石

松本市内の本町通りを行くと、千歳橋の手前にこの石がありました。
けっこう、通行の多い道路ですが道行く人はほとんど興味を示しておりません。
それでも、しっかりと保存されていましたので、安堵。

 

松本城下形成前は、その当時の町の中心地である地蔵清水町の一角にこの石があったとされています。

永禄十一年一月十二日(1568)武田信玄公と上杉謙信公が信越地方を舞台として華々しく戦っていた頃、今川・北条氏の戦略によって駿河経由の塩が絶たれました。

謙信公はそのために、松本地方の人々が塩不足に苦しんでいると聞いて、信玄公の支配下のこの地方に越後方面から海塩を急送してその難儀を救ったと言われています。

たまたま、その塩が牛の背に着けられて到着し、その牛を繋いだのが、この石であるそうです。

この日を記念して、謙信公の義佼心を称え、塩に対する感謝の日とし、塩市の日という祭りになったと伝えられています。

塩は明治三十八年、国の専売となった為、又当時松本地方は飴の生産日本一をほこっており、市内の飴屋が塩俵に梱んだ飴を作って元来の塩市を「飴市」とした経緯があるそうです。

 

 


 

「申し上げます。殿、お急ぎの出立を」

「わかっておる」

小笠原城主は、冑を脇に置き、目の前に咲いている牡丹の花に見入っていました。

「殿、再三の御無礼でありますが、取り急ぎご準備を」

源左衛門は頭を下げ、城主の言葉を待ちました。

「源左衛門、頭をあげてこの牡丹を見てみい。清らかで美しいものじゃのう。この花を見ていると出陣の決意も鈍ってくるというもの・・・」

「殿、お願いで御座います!今は牡丹の花など悠長に眺めている場合ではありません!」

「わかった、わかった・・・いま仕度をする故、先に行って準備しておれ」

源左衛門は城主の傍を離れ、出陣の準備に走りました。

(それにしても、心うばわれるこの牡丹・・・何としても戦乱から守っておきたいものじゃ)

小笠原城主が林城へ戻り、鎧の紐を解いていると、兎川寺の住職がやって参りました。

「これはこれはお殿さま、こたびの戦、ご苦労さまでした。お疲れのところ失礼ですが、久根下殿からのご依頼がありまして」

「いえいえ、早々のご訪問、ありがたくお受けいたします。さ、どうぞこちらへ・・・」

城主は牡丹の見える庭へ招き入れ、兎川寺住職の方丈さまにお茶を懇願いたしました。

茶の間から見える牡丹の花は、わずかに降りだしてきた雨に濡れ、いっそうの美しさでありました。

「ところで城主さま、牡丹の花は今頃が見頃でしょうな」

「おおせの通り、今日明日が見頃でしょう。今日はまた雨に濡れた牡丹の色がひときわ鮮やかです。そこでのう・・・・方丈さま。この牡丹はわしの宝・・・わしの命とも思っておるしだいです・・・
戦の勝敗は時の運、方丈さまのお力で、もしやの事あらばこの牡丹の木を守って頂きたい」

頭を下げた城主の目には、そぼ降る雨のように、光るものがありました。

「ご城主さまのお心、承知いたしました・・・
我が命と愛されたこの牡丹の花、いざというときはお預かりし、末永く子孫に伝えましょう。
お一つしかないお命、どうぞ大切になさいますよう、わたくしも、ひたすらにお祈りいたしております」

そう言って、方丈住職さまも目頭を押さえました。

それから3ヶ月が過ぎ、小笠原城主は林城を追われました。
しかし、約束を守って株分けした牡丹の花は、子から孫へと兎川寺の庭で大切に育てられ、今ではその幾株かが松本城本丸の庭に移され、今に至っています。

小笠原牡丹

松本城本丸の庭園に、小笠原牡丹があります。

訪問した季節が悪かったので、すでに冬支度をされておりました。

案内板に、こう記されていました。

 

天文十九年(1550)七月、甲斐の武田信玄に攻められた小笠原長時は林城館にあった純白の牡丹が敵兵に踏み荒らされることを憂えてこれを里山辺の兎川寺に託して去った。
その後同所の久根下家はこの牡丹を守り昭和三十二年十一月その株を松本城本丸庭に移した。
これが小笠原牡丹である。

 

 

 

また再び、訪れる機会がありましたら、小笠原牡丹の鮮やかな季節に松本城へ・・・

兎川霊瑞寺 (松本市里山辺兎川寺)

小笠原氏代々の祈願所だったが、小笠原氏が武田信玄に攻められて没落したとき、この寺も寺宝の三仏をはじめとして古来の什物を失った(信府統記)

 

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