志賀夫人の墓を訪ねて

 

まず、志賀城攻めについて、御存知かと思いますがちょっと紹介します。

この志賀城攻めの際、小田井原の合戦で討ち取った首級約五百を、武田軍が槍の穂先に刺して志賀城に向けて、かざしました。

城を守る将兵の戦意を失わせる為でもあり、この武田軍の行動で覚悟を決めた笠原清繁は総攻撃を始めました。

必死で戦う笠原軍に武田軍も、たじたじ・・・

しかし、その志賀城も激しい攻防の中で落とされました。

城内で捕らえられた笠原夫人、女、子供百人余りはそのまま甲府へ護送されます。

才媛の誉れ高い笠原夫人は、小山田信有によって岩殿城の駒橋に連れられ、側室となったのです。

 

 

天文十五年丙午、(中略)志賀要害は八月十一日、依田一門高田一族志賀殿御内をば、家老平六左衛門尉兄弟八人、去間以上打死三百計。
志賀殿御上をば、小山田羽州給いて、駒橋へ御同心(同伴)申し候。
去程に男女生け捕りなり被候而、悉甲州へ引越申し候。

妙法寺記

志賀殿御上とは笠原夫人、小山田羽州とは小山田信有のことと思われ、岩殿山麓に近い駒橋に妾宅を構え、笠原夫人を囲ったと、伝えています。

また、この年は誤記しているようで、天文十六年であったようです。

参考までに、この志賀攻略の後でしょうか、その年に「甲州法度之次第」を制定しています。

 

甲斐国志による、小山田出羽守妾婦の宅跡を紹介しておきます。

 

両駒橋の間、駅路南の山足に有り、今皆田畠となれば広狭詳にしがたし。
其の内に大石を畳み、古木立ち茂れるところあり、仮山の跡なるべし。
其の岸は泉水をめぐらせし地と見ゆ。

土人伝え云う、古へさりぬべき女房、此の地に住みて、朝夕いと物かなしく涙がちにくらしけると何人たること知らざりき。
今此の地を御所と称す。 (中略)

里人伝説の女房は、即ち羽州(小山田出羽守)相具し来たる所の志賀某が妻のことなるべし。
岩殿山は小山田の要害城にして、駒橋は其の近郷なれば、在番の家士、此の辺りに第宅あるべし。
故に妾婦なども此の地に置きなしならん。

時人の童謡に ”岩殿山でこと(琴)をひくひくは、との(殿)うたうは、殿のおめかけ”
此の謡は蓋し志賀の妻を取りて羽州の妾とし、其の色に淫することをそしる謡なるべし。

甲斐国志

駒橋に同行した時、夫人は21歳で、美貌と聡明謙虚な人柄として近郷に名をなしたと伝えられています。

天文二十一年に小山田出羽守信有が他界した後は、余生を物静かに平穏な日々を送り、天正六年(1578)、52歳の生涯を終えました。

 

葛野川沿いに、大島山宝林寺があります。

この宝林寺は曹洞宗長生寺の末寺、元亀元年(1570)開山のお寺で、小山田氏(信茂?)が長生寺の明菴宗監を開山守とし、岩殿城鬼門の守りとして建立しました。

 

岩殿城址を後にして、円通寺跡、真蔵院を訪問。

葛野川を渡って川沿いに歩くと、右手に岩殿山が見えます。

鏡岩から見る岩殿山とはまた違った趣きがあり、綺麗な山だなあと思いました。

ちょうど、兜のような形に見えます。

川沿いの道路から少し入ったところに、まず、この石記を見付けました。

この宝林寺は、開山から数回の火災に遭ってしまったそうです。

小山田氏の頃の威勢は面影がありませんでしたが、集落の中心部に位置しています。

付近には、年貢地・砲台・出構え・馬場・馬冷し・花輪・城番家・大屋隠居などの地名や屋号が残っているそうです。

宝林寺の墓地へ向うと、その通路に志賀夫人のお墓が見えました。

何も表示されてありませんが、かえって素朴な雰囲気と志賀夫人の気高さが感じられました。

お墓の下方には、散乱した五輪塔の空・風の部分である宝珠、受花の部分が集められていました。

それは、戦国の将兵のお墓の一部と思われます。

 

しばらくこの志賀夫人の墓石付近におりますと、近くの農家のお爺さんがわたくしに近寄ってきて、いろいろ尋ねて来ました。

あまり訪ねて来る人もないようで、わたくしのような訪問者はきっと珍しかったのでしょうね(笑)

優しい地元のお爺さんで、帰りの道も詳しく教えてくれました・・・

それにしましても、このお墓は実に立派なもの。

1メートルくらいあったかな、それに空(宝珠)の部分も欠けておりますので。

 

あまりメジャーではありませんが、このようなお墓を訪れるのも良いものです。

足が向けば、皆さんに 「マイナー墓石紀行?」 として、数々のお墓を紹介したいと思っております。

 

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