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西原五輪塔群 西野姫(せいやひめ)伝説

 

 

三浦介星友がマンノウォーといっておりましたHP開設当時のこと・・・

開設当時から訪問してくださった読者さまは御存知かと思いますが、当初は本当に内容の少ない(今でも、か・苦笑)サイトでした。

産声をあげたばかりの頃、はたして本当に読者の皆さまに小さな感動が伝えられるのか、そんな不安な気持ちでいっぱいでした。

このサイトを立ち上げましたその原点は、小さな伝承を忘れずに、後の子供達にも伝えたい、伝承の地である故郷の疾風(かぜ)をいつまでも感じて欲しい、という思いがあったからなのです。

そこで最初に伝えたく思いましたのが、この伝説でした。

旧・中巨摩郡白根町(現南アルプス市)に存在する西原五輪塔群と、その五輪塔に関連した人物に対して非常に興味が湧き、調査してみました。

しかし、自分が調べたどの文献にも、この伝説に関係する明慶院一族、西野姫は現れてくれませんでした・・・

さらに、その五輪塔群の場所さえ解らず、地方史と山梨の伝説の本を眺めては、その思いを募らせるだけだったのです。

どうしても訪問してみたい・・・

そこでわたくしは白根町のホームページを訪ね、Eメールにて質問してみました。

後日、丁寧にも西原五輪塔群の存在する地図と資料を、白根町役場の広報担当者から送付して頂いたのです。

白根町役場の櫻本さま、穂阪さま、本当にありがとうございました。

この場をお借りして、御礼申し上げます!

ではまず、その資料を元に西原五輪塔群について触れたいと思います。

 

西野巻屋区、曹洞宗円通寺の境内の西北につづく竹林中に、五輪塔は雑然と群立していた。

近年、竹林の開墾のとき、同地の所有者芦沢氏の努力によって一区画に集められ、年々供養が行われている。

五輪塔は、室町末期に本村に住んだ領主・明慶院とその西野姫、西野一族の最後をいたんで村人が建てたと言う口碑が伝えられている。

石材は北巨摩産の安山岩で、明慶院塔と見られる一基のみ凝灰岩製である。

地輪の比高、水輪の比高、火輪の軒反り、軒の切り方、風空輪等の寸法や造りから見ると、その伝説の時代と合致した制作年代を推定し得る。

この五輪塔群の特色は、領主と見られる明慶院塔がひときわ大きく、総高から大2基(64〜67cm)中5基(57〜60cm)小11基(43〜48cm)と、地位の主従関係が基塔の大きさからうかがえる。

なお、残欠は風空輪35個、火輪10個、水輪6個が数えられる。

したがって創建当時には54基の五輪塔が 西野村庶民によって広大崇厳な霊域を形づくっていたものと思われる。

 

1998年12月、広報 『しらね』

その中の、「シリーズ いにしえの風景 〜 西野姫(せいやひめ)伝説」 にて、この白根町西野の地名の由来について紹介されています。

中巨摩郡地名誌という本によると、

「西野は今諏訪の西方の村で、水の乏しい扇央、いわゆる原方の代表的地域で、いわゆる原方の代表的地域で、原のつく小字も多い。
開発はわりあい遅く、弥生時代には今諏訪から見て、西の野原であったと思われる。
これから西野の地名が生まれたのではなかろうか」

しかし、西野という地名には、戦国時代にまつわる哀しい言い伝えがあります・・・


白根・桃源郷

戦国時代の初め、甲州中に豪族が勢力をもっていた時のことです。

東に栗原信友、辺見(へみ)には今井信是、野之瀬の上野部落には大井信達という武士が椿城(現在櫛形町上野)を構え、威勢をはっていました。

石和の川田には、武田信虎が国中の地の利を得て日に日に勢力を増し、甲斐の統領になろうと虎視眈々としていました。

その頃、西野(今の字中村部落を中心にした所)には、明慶院という豪族が住んでおり、あまり勢力は強大ではありませんでしたが、信虎の信任は厚かったそうです。

明慶院には西野姫という、大変美しい姫がおりました。

明慶院は娘を信虎に嫁がせて同盟を組み、自分は大井氏征伐の先鋒になろうと、やっとのことで婚約までこぎつけます。

西野姫も信虎の凛々しい若殿ぶりを見て、その婚約をそれはそれは喜び、嫁ぐ日を楽しみにしていました。

いよいよ輿入れの時となり、姫は大勢の家来に付き添われて石和に出発しました。

しかし、それを知った大井氏は隙を見て今井河原に軍勢を集め、明慶院を攻め立てたのです・・・

明慶院一族は相手よりも軍勢が少なく、頼りにしていた武田の援軍も間に合いませんでした。

武運つたなく明慶院家の将士は破れ、西野の小森の地で全滅してしまったのです。

幸いにも生き延び、残された西野姫は尼姿となり、西野北芝原の地で同族の将士の菩提を葬りました。

そのお経を読んだお経塚からは石和の川田館も遠望され、信虎を偲んだといいます。

やがて信虎は夫人を大井家から迎えましたが、大井と武田の戦いは何年も続いた末に大井家を従え、甲州の国主として隣国にその勢力を伸ばして行きました。

西野姫は、慕いつづけた信虎と、仇である大井氏と敵味方の恩讐を越えて、西野北芝原のお経塚から武田家の武運を朝夕に祈ったそうです。

西野姫が亡くなった後に村人がこの地に集まり、十数基の供養塔を建て、西野姫の霊を慰めました。

西野北芝原のお経塚は明治中期開墾され、今は畑になっています。

この薄幸な西野姫の名前を取って、西野(にしの)と名づけられたと言うことです。

ちなみに西野には「西野白桃」という甘味の強い、美しい形の桃が栽培されていますが、これは西野姫の美しい顔や肌にあやかって付けられたものともいわれています・・・

 

西原五輪塔群を訪ねました

甲府駅から鰍沢方面・西野経由の路線バスを使い、約30分。

西野バス停で下車。

その道を真っ直ぐ進んで数分、円通寺を過ぎたその脇に空き地があります。

フェンスに囲まれた、約4メートル四方に・・・

西原五輪塔群を発見しました!

続く・・・

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