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左馬神社例祭

 

 

管理人の地元、横浜市瀬谷区橋戸には村の鎮守・左馬神社(さばじんじゃ)があります。

創立年代は明らかではありませんが、当初は今現在の西方・境川の岸に古宮と云われる地があり、そこに民族的な食糧の神として祀られていました。

その頃は簡単な鳥居があるだけの、名も無い 「沢の小祠」 だったと伝わっています・・・

後に、鎌倉幕府の郷土で源氏所縁の家臣が、村人と協力して今の橋戸地区に遷座し、源義朝公を祭神としたと云われています。

この左馬神社の祭礼はかつて九月十日に行なわれていたことから 「トウカマチ」 といわれ、境内では相撲・見世物等も多くみられて、近郊近在では有名なお祭りだったそうです。

現在では、九月の第二日曜日が左馬神社の例祭となっております。

かつて、境川流域の村では疱瘡、湿疹、疫病などが流行すると 「サバ参り」 あるいは 「相模七左馬」 と称して、七ヶ所のサバ神社に参詣して厄除けをする民間信仰が盛んでした。

このサバ神社の七ヶ所については色々な説がありますが、以下に挙げるものと考えられています。

横浜市瀬谷区橋戸

横浜市泉区上飯田

横浜市泉区下飯田

大和市上和田

大和市下和田

藤沢市高倉

藤沢市今田

左馬神社 (山内庄瀬谷村)

飯田神社・旧鯖明神 (山内庄上飯田村)

下飯田左馬神社 (山内庄下飯田村)

左馬神社 (渋谷庄上和田村)

左馬神社 (渋谷庄下和田村)

七ツ木神社・旧鯖明神社(渋谷庄七ツ木村)

鯖神社 (大庭庄今田村)

( )内は、相模国風土記稿による村名 

例祭当日

ところで、この七サバ参りとはどんな意味をもつのでしょうか?

かつての境川周辺は水害の多い土地でもあり、しばしば洪水等の被害を受けました。

このことは、郷土に残る古文書からも明らかです。

ということから考えてみても、この付近の民衆は何か強力な助っ人、心の拠り所を必要としていたのではないでしょうか・・・

七福神参りはみなさん御存知かとおもいますが、それは「七難即滅七福即生」 に由来しているとか。

その七福神参りが変形されたかたちで、この地に現れ 「七サバ参り」 と呼ばれるようになったものと推測されます。

では、何故に 「サバ」 参りと云われるのか、なのですが・・・

サバ神社の 「サ」 とは、天地の神さまを意味し、「バ」 とは、その神聖なる地とも考えられています。

総合してみると、七サバ参りとは、村での目に見えない疫病等・外敵の進入を防ぎ、そして天地の恵みが得られるように、そして 「七左馬」 の祭神、源義朝公の御加護を得る為に、村民が行なってきたのでは?

と、自分なりに感じるところです。

 

この例祭には橋友会という地元の神輿担ぎ手や、他の左馬神社からも数人が来まして、御囃子などを披露してくれます。

そして瀬谷・橋戸には、横浜市無形民族文化財認定の 「橋戸囃子」 が伝わっています。

この例祭では、神輿の宮入、直会、各地区の御囃子の後、神楽殿では地元の人達による演芸会が行なわれます。

その後、「橋戸囃子」 に乗って、非常に面白い御囃子踊りが奉納され、最後には餅まきが・・・ここで、管理人は御餅3個をGET!!(笑)

 

お正月

田植え

田植え・・・一服

収穫の秋

冬・御餅つき

 

 

左馬神社と源義朝公関連

全国的に見ても、左馬神社そして源義朝公を祭神とする神社は見当たりません。

何故、この境川周辺に集中して建立されているのか、それには訳があるのでは、と、近在の郷土史研究家はたくさんの考察を発表しております。

数年前には藤沢にて 「サバ社」 の由来とかを発表するシンポジウムも開かれたようです。

それらの意見を参考に、左馬神社に関する境川周辺の歴史と伝説の世界にお入りください・・・

なお、赤字で表した意見は管理人の意見で御座います。

 

源義朝公について・・・

さて、これからは祭神である源義朝公について簡単にお話しておきましょう〜

源義朝公は清和源氏嫡流で、源頼朝の父親です。

保元の乱では父・為義との争いを余儀なくされ、為義を処刑すると同時に、多くの弟たちをも抹殺する憂い目に会いました。

保元の乱の後、左馬頭となった義朝公は平治の乱では平清盛と敵対し、京で敗れ再起を図る為に東国を目指します。

途中、現在の岐阜市大垣、青墓を経て尾張・内海庄に立ち寄り、長田庄司忠致を頼りますが、長田忠致の裏切りに合い殺害されました。

 

左馬神社の御神体についての伝承・・・

管理人も間近で拝見した事はありませんが、御神体は約八寸の木像であり、金粉塗であるため、ある時代に盗まれて近くの竹薮に捨てられてしまいました。

その夜、御神体は宮世話人の一人の夢枕に立ち、神社へ帰りたいというお告げがありました。

宮世話人は早速、御神体を見つけ出し、神社へ戻したそうです。

その為なのか、御神体の木像の刀の部分が破損しているそうです。

(瀬谷区の歴史:宗教編より)

もしかして・・・この太刀が無い御神体の像は、義朝公の最期に関係するのか?
このあたりで、管理人の無知なる素人の追求が始まったのです(笑)

 

小さな御神体

源義朝公の最期・・・

義朝公は平清盛との平治の乱で京を敗走、再起の為に美濃の青墓を経て、杭瀬川を下り、尾張・野間の内海庄に立ち寄りました。

ここには長田忠致(おさだただむね)がおりました。

義朝公と供に主従していた中には、鎌田正清と金王丸の姿があります。

この鎌田正清は長田忠致の娘を妻としておりましたので、忠致を頼りにしたのはいうまでもありません。

年も暮れ、十二月二十九日のことでした。

忠致は厚く待遇し、新年を迎えさせましたが、子の景致と相談し、義朝公を討ち取り、その首を平家に送って恩賞を得ようと考えます。

正月三日、忠致は三人の刺客を湯殿(お風呂のこと)に隠し、義朝に入湯を勧め、鎌田正清には酒を飲ませました。

義朝公は湯殿に入りましたが、金王丸が太刀を身に付けて番をしていますので、忠致の刺客は手出しが出来ません。

しばらくして、金王丸が帷子を持ってくるよう、人を呼びましたが返事がありません。

誰もいないのかと、金王丸が湯殿の外に出たところ、刺客が入れ違いに湯殿の中に入りました。

「正清はいないか。金王丸はいないか。義朝ただ今討たるるぞ」

との言葉を残し、義朝公は討たれてしまったのです。

この事に気づいた鎌田正清が走り出したところを、景致に斬られました。

金王丸は三人の刺客を切って捨て、馬を走らせ、義朝公の愛妾・常盤御前の宿坊へ報告に向ったのでした。

金王丸は報告後、常盤御前に別れを告げ宿坊を立ち去り、ある山寺で髷を切り、法師になって諸国七道修行して、義朝公の菩提を弔ったということです。

(平治物語より・・・)

尾張知多半島・野間の大御堂寺にある義朝公の廟所には、この時、義朝公がせめて木太刀一本でもあれば・・・そう簡単に殺されなかっただろうという同情から、木太刀を形どった「ごま木」が今でも奉納されているそうです。

左馬神社の御神体の刀の部分が無いのも、義朝公最期に伝わる話を元に作成したからなのでしょうか?
それとも、破損した刀の部分を、大御堂寺にある義朝公廟所に奉納したのか・・・

 

義朝公終焉の地、内海庄・野間と、左馬神社周辺の共通点・・・ (その1)

さて、ここで最初の左馬神社についての紹介に戻って見て下さい。

赤字で示した 「郷土で源氏所縁の家臣」 とは誰なのでしょう?まず、それには瀬谷の昔を知らなければなりません。

左馬神社の創立については、江戸初期と見られています。

江戸初期の頃、瀬谷村は相給といって、一つの村が二人以上の旗本や大名の家臣によって知行されていました。

新編相模国風土記稿の中に、長田忠勝・天正十九年(1591)、長田白政(あきまさ)・寛永二年(1625)が瀬谷村の采地賜るとして見えます。

長田忠勝は天正十九年にはまず、高座郡二百石を賜り、その後慶長年間に徳川家康公から、御鷹場をあずかり、瀬谷の地に御鷹匠として百石を采領され、計三百石となったのです。

ここでお気付きになったかと思いますが、源義朝公を抹殺した張本人であるのは・・・長田忠致ですね。

この長田氏の家系は?

長田氏は桓武平氏の一族で、良文の弟・良茂からその孫・致頼が長田氏を称し、公致・致房・行致と子孫を残しています。

長田忠致は長田行致(長田政俊?)の二男であり、長田行致の長男は長田親致となっています。

親致は弟・忠致の義朝を討つ謀には賛同せず、難を逃れて三河に隠棲し、以後長田氏の子孫はその地に住みました。

徳川氏が世に出るに及んで子孫はその傘下に参じ、家康が関東の主となったときに長田忠勝が高座郡・葛原の地を賜りました。

この葛原の地は、かつて長田氏の構えた居館、垂水御所があったと伝わっています。

全国的にも珍しい、義朝公を祭神とする神社の根拠が見えてきますね!このことは、江本好一氏も述べられております。

(参考:「サバ神社その謎に迫る」 江本好一著)

 

義朝公終焉の地、内海庄・野間と、左馬神社周辺の共通点・・・ (その2)

上和田・薬王院

野間・法山寺

義朝公が亡くなられた湯殿は、野間・法山寺域内にあります。

行基菩薩が諸国巡化の折、薬師如来の像を刻み、このお寺に奉安しました。

この湯殿もまた行基の創始という伝承があります。

この御本尊は御湯殿薬師とも云われ、第十代住職はこの湧き水によって目が治ったといい、江戸期にはこの水が目に良く効く「四方丹」として売られていたそうです。

長田氏にとっては湯殿のあるこのお寺は、非常に大切なものであったのでしょう。

(参考:「サバ神社その謎に迫る」 江本好一著)

上和田・信法寺薬王院伝説

上和田・薬王院は、瀬谷・左馬神社から境川を隔てた、大和市上和田という地にあります。

この薬師堂は、鎌倉期の武将で上和田の地頭であったと伝わる和田義盛が眼病を煩った折、その治癒を祈願して十七昼夜を薬師如来(行基作)に祈ったところ全快しました。

その後、 「もし擁護を蒙って侍所の別当たるを得れば一院を創せん」

と祈願したところ、その職を得ました。

和田義盛はその功徳に報い、この上和田の地に一堂を建立し、薬師如来を祀ったと伝わっています。

また、天正十九年にはこの上和田は旗本・石川永正の知行地になっていますが、その内室がやはり眼病を煩いました。

内室はこの和田義盛の故事に倣って薬師如来に十七昼夜祈願し、同様に治癒しました。

そう言えば、石川永正が知行を賜った年と、長田忠勝が高座郡・葛原の地を賜ったのは同じ年です.。

その頃の薬王院はかなり荒廃していたらしく、その堂の再興を図る為、石川永正が生養山信法寺として開山しました。

この石川氏は清和源氏八幡太郎義家の五男・義時を祖としていまして、同族の石川重政は瀬谷・阿久和村に知行がありました。

現在、薬王院はこの信法寺の管理されることとなっています。

左馬神社の由来というものが、左馬神社境内に書かれていますが(大分薄れてきています・汗)そこにはこんな伝承が記されています。

「左馬の宮さんと和田の薬師さんは仲が悪い、九月八日薬師さんの祭礼が雨なら、瀬谷のトウカマチ(左馬神社の祭礼)は晴れ、また其れが反対なら雨天になる。

瀬谷の左馬様と和田の薬師様が碁を打った。負けた方がそのお祭りの日に雨が降る」

この二つの伝説から考えられる事は、

薬師如来を祀ったお寺の湯殿に誘われ、殺害された義朝公と薬王院とは仲が悪い・・・

(参考:「サバ神社その謎に迫る」 江本好一著)

石川永正は源氏の出身であり、義朝公を討った祖の長田氏とは仲が悪い・・・

 

 

金王丸と渋谷氏のこと

地方に残る伝説

ここで、ちょっとまた思い出してみてください・・・

平治物語での義朝公の最期のところに金王丸(こんのうまる)という名前が見えますね。

金王丸とは?

鎌倉期時代の武人で、平治の乱の後、土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)のことと、一般には云われています。

この土佐坊昌俊は、渋谷金王丸といい、義朝公が難に遭った後に出家して僧となりました。

僧となった土佐坊昌俊は武蔵の渋谷(渋谷区)に帰り、八幡社の境内に桜を植えた、それが金王桜と伝わっています。

後に源頼朝の命により、義経を京都の堀川において襲撃。

義経軍に敗れたのか、あるいは手を出さずにいたのか知る由もありませんが、この戦いの後、六條河原において梟首、亡き人となりました。

ところが、境川周辺の地域には、この渋谷金王丸の伝説が別のかたちで残されているのです。

綾瀬村風土記(早川の項)

《古墳》

字祖師谷に有り、半坪程、少しく堆し。

往古菩提寺と唱えし廃跡あり、渋谷金王丸の塚と唱うるあり。

傍に菩提樹と云う異種の古木あり、又、土人の唱うる欝金(ウコン)の桜有り。

《古跡》

字清水に有り、現今圃に相開け居るも隍塹、馬場、城郭の残跡ありて其近辺に陶瓦器の碎片多く有り。

土人相伝う、鎌倉時代渋谷庄司の居城廃跡なりと、又、村内長泉寺に渋谷庄司の古塚なりと唱ふるあり、真偽保ち難しと雖も暫くここに口碑の侭を記す。

この古跡に記されているのは、早川城のことと思われます。

古墳に見える、この渋谷金王丸塚とは、いったい誰の塚なのでしょう? 

 

渋谷金王丸の塚を訪ねてみました・・・

綾瀬市早川、長泉寺墓地裏の雑木林の中に、この塚があるという情報を得た管理人は心躍らせ?長泉寺周辺を探してみました。

しかし、その場所はついに見つからず、法事でお忙しそうだった同寺の住職さんに聞いてみました。

「金王丸塚ですか・・・
そこは心無い人達に荒らされて、中には掘り起こす不束者も居ましてね。
雑木林の中、今ではお寺で管理出来ない状態で、立ち入れないようになっているんです。
でも、2〜3年後には境内に金王丸の碑を作る予定なんですよ」

金王丸の碑が出来るのを待って、再度訪問してみようと思います。

金王丸山と言われる辺り

 

和田義盛と渋谷高重のこと

先に紹介した薬王院伝説の和田義盛は鎌倉幕府創立期において侍所別当を授かり、有力な人物でした。

和田義盛の妻と渋谷高重の妻、それは姉妹の関係で、いわば和田義盛と渋谷高重とは義兄弟・・・

ここで渋谷高重という名前が現われて来ましたね!

この渋谷高重とは、義朝公と共に平治の乱に参戦した渋谷重国の二男です。

渋谷高重の父である渋谷重国は、平治物語 「待賢門の軍の事」 の項に、義朝公の嫡男・悪源太と共に十七騎馬として駆け回ったとあります。

源頼朝は後に、平治の乱で義朝公に仕えて忠誠を尽くした金王丸を思い、渋谷荘・早川城主として渋谷高重を御家人に迎えました。

このとき、長男光重は吉岡城に、遠馬城には三男・時国、石川には四男・重助、飯田には五男・重近を置いています。

もしかすると渋谷金王丸は渋谷高重なのでは?

和田義盛は北条義時の巧みな陰謀に誘われ和田の乱を起こしましたが、その時、渋谷高重も共に和田軍として参戦。

この戦いは激戦の中、ついに和田軍は敗れ、和田義盛と同時に渋谷高重も討死してしまいます。

そして、この戦いに敗れた金王丸についての伝説が口碑で伝わり、長後誌史に紹介されています。

それには、金王丸のことを渋谷高重、渋谷金王丸としている記述も・・・

長後誌史・・・長後とは高座郡渋谷庄、下和田に隣接している町において昭和四十二年に編纂された、伝説を多く紹介している郷土の本です。

 

長後誌史での金王丸伝説

災難山・・・下和田の上高倉分の山を昔から所有した者には、必ず身に災難が降りかかると言い伝えられています。

和田の乱にて和田一族戦死後、共に同士として戦った渋谷金王丸が手傷を負い、命からがら渋谷の庄に戻ってきました。

しかし、北条の追っ手が厳しく、災難山に住んでいた 「オタキ」 と呼ぶ山姥にかくまわれていましたが、遂に攻め立てられこの山で討死したそうです。

渋谷金王丸の 隠家のありし 渋谷の里

渋谷高重は、平治物語の義朝公最期の節に登場している金王丸(土佐坊昌俊)の養子になったと、武蔵国風土記稿にはあります。

主家に忠実であるという武士の姿勢、金王丸と渋谷高重、これには共通点がありますよね。

東京都・渋谷にある金王桜、綾瀬・早川にあるウコンの桜、その木だけが金王丸の真実を知っているのでしょうか。

 

渋谷重助と石川四郎の記述

吾妻鏡の記述で、文治元年五月九日・・・

「渋谷五郎重助、関東の御挙に預からずして任官せしむる事、召名を申止められるべきの旨、重ねて沙汰あり。

これ父重国、石橋合戦の時、武衛(頼朝)を射奉るといえども、寛宥の儀によりて召仕わるるの処、重助は猶平家に属せしめ、度々の召に背き畢んぬ。

しかるに平家、城外に赴くの日、京都に留まりて、義仲朝臣に従い、滅亡の後、延尉(義経)専一の者となる、条々の科、精兵の一事に優ぜらるるの処、結局任官せしめ訖んぬ、旁ら然るべからざるの由その沙汰あり」

(上文略)渋谷重助は、父重国と違って親平家の武士として京都にあり、義仲から義経へと、次々と主人を変えてきた。

そうした武士が、各地を転戦して苦労している武士に優先して任官するとは、けしからん事・・・

その後、吾妻鏡に重助の記述が見えるのは、文治三年四月二十九日の項に、伊勢の国地頭職として伊勢神宮の年貢を収めていない未納者にその名が見えるだけです。

その後の重助については空白といっても良いでしょう。

 

ここで、一つ気になるのは、渋谷五郎重助。

「桓武・平姓一渋谷氏=東郷流」 並びに 「渋谷区史所収、渋谷系図」 には、渋谷重助は四男と記されているんです。

その渋谷重助は今の藤沢市石川の辺りを守備した、石川四郎重助と称されています。

後の和田の乱において亡くなった諸士の名簿に、渋谷の人々・8人として、こう記されています。

渋谷せんさの次郎、同三郎、同五郎、同小次郎、同子三郎、小山四郎、同太郎、同次郎。

平治の乱後、渋谷重国父子が高座一円を領した時、石川に配置した四郎重助と、五郎重助は同人物なのでしょうか?

何かこの辺にキーワードがありそうな気がしてなりません。

 

平治物語 「金王丸尾張より馳せ上る事」 には、金王丸が父・義朝公の子息、今若・乙若・牛若との涙の別れを告げています。

義朝公に忠誠を働いたのは金王丸であり、牛若(後の義経)と涙ながらに別れています。

このことからも、金王丸が牛若(後の義経)を主人とした、と、考えられなくもない気がします・・・

 

義朝公と長田氏、義朝公と金王丸、和田義盛・渋谷高重と石川氏、牛若(延尉・義経)と五郎重助、、金王丸と牛若。

そして、境川下流には義経首伝説もあり、境川周辺には、歴史の伝承が静かに流れ注いでいるような気がします。

 

管理人の独断と偏見・大穴予想(笑)

(1)渋谷重国の嫡男の中には、史実に残されていない謎の人物が居たのか・・・

(2)高座・綾瀬地区で金王丸とは渋谷高重と信じられている。

(3)謎の人物が金王丸を名乗り、その正体は渋谷高重の支族で、その人物が境川近郊の民衆に多くの伝承を残し、後世に伝えた。

(4)その伝承はしだいに薄れていたが、江戸初期に知行を得た、義朝公の仇・旧長田氏の関係によって再燃。

(5)金王丸は渋谷高重の死後、金王丸という名を渋谷高重に置換え、そして、自らは幾多の戦乱を悲しみ、身を隠してひっそりと生涯を送った・・・

まあ、こんなお馬鹿さんな推測、素人のわたくし管理人が成せる技(苦笑) 

でも、こういう推測に思い巡らすのも、歴史と伝説の楽しみかと思います。

郷土の歴史に関する小さな伝承、今まで気が付かなかったこと、読者の皆さまも掘り起こしてみてください〜

推測するのは個人の夢でもあり、自由なものですからね!

藤沢市石川には左馬神社と漢字こそ違いますが、佐波(サバ)神社があり、一説には石川六人衆が勧進したという伝説もあります。

この石川六人衆は謎の面が多く、武田氏の旧臣であるとも伝わっています。

また、甲斐武田氏滅亡の時、この境川周辺には多くの旧武田家臣が移り住み、後の八王子千人同心衆にもなったと伝わっています。

義朝公終焉の地、内海庄・野間と、左馬神社周辺の共通点・・・ (おまけ編)

最後に紹介しておきたいものがあります〜

義朝公終焉の地である内海、野間が所在している知多半島、そこには河童の像三体が建っています(管理人は拝見した事がありませんが・苦笑)

お父さん河童・野間太郎は野間から伊勢湾に向かって、お母さん河童・ゆり子は河和(こうわ)、お嬢さん河童・花子は布士(ふっと)という地に、それぞれ伊勢湾の反対、知多湾に向って建っております。

この河童三体は、子供達にカッパのように泳ぎが上手になってほしい、水難事故にあわないようにと立てられたそうです。

なぜ東と西に離れ離れなのか、いつ、だれが作ったのかは謎…。

(HP:知多半島「るぅ〜まっぷ」より)

 

小田急線・高座渋谷駅の近く、大和市福田に常泉寺というお寺があり、和田義盛と石川永正内室の伝説がある薬王院とは小田急線の線路を挟んだ格好で位置しています。

そこのお寺には、たくさんの河童の像が、境内に溢れています。

河童七福神というものも存在しているのですよ!

では、その謂れを紹介しておきましょう〜

花のお寺としても有名な常泉寺

 

かっぱ七福神のいわれ

かっぱ七福神さまは、河童のお姿をした七福神で、当山独特の福の神さまです。
どうして河童達なのかと申しますと、河童は相撲が大変好きで、人間にも挑戦するそうですが、なかなか勝てずそれでもあきらめずに何回も何回も挑んでは最後に人間の方が根負けをしてしまうそうです。
また、河童には相手の心理を全部見透かす能力もあり、この粘り強さ、あきらめない力、たくましい精神力にあやかり、わたしたちもたくましく、しぶとく、忍耐強く生きて、さまざまないじめにも負けない生き方をしたいものです。
当山が水に縁のある寺名で、福田という地名に建てられたことから、福を引き寄せる力のある福の神として、かっぱ七福神さまのお姿となり信仰をあつめています。
また、「水の神さま」と呼ばれ、水難よけの神さまとしても親しまれています。

 

碁を打つ、河童さん。

上和田・薬王院と左馬神社の伝説

「瀬谷の左馬様と和田の薬師様が碁を打った。

負けた方がそのお祭りの日に雨が降る」

河童はお祭りに関係なく、雨が好き〜(笑)

 

左馬神社の伝説

「左馬神社の神さまは、昔から子供好き。

神社内で子供の悪戯を叱った者には神罰が当たる」

この伝説は、内海にて無念の死を遂げた義朝公が、常盤御前との幼き子供(後の義経ほか)を想う心を表現しているのかも知れませんね・・・

そして、義朝公に忠誠尽くした童 「金王丸」 の事を後世に伝えようとしているのかも・・・

謎の人物・金王丸、彼の事を一番良く知っているのは、野間と大和にある、この河童なのかも知れませんね!

もしかすると、金王丸は河童だったのかも知れません・・・

おしまい。

親子河童

 

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