甲斐国志による小山田氏の谷村館跡について調べてみました。

 

是れ天文元年より天正十年壬午春まで五十一年間の間、小山田氏谷村に居住せり。
其れ以前は世々中津森に居住す。
館跡は今の新町の西北に当たられり。
土人相伝えて、長安寺の境内は小山田氏の別荘なりしと云う。然も有るべし。
天正十三年、旧嘘に拠りて仏刹を建立せるなり。
又岩殿山は要害城にして、居館は谷村たること明らかなり。

 

てっきり岩殿山麓に居たものとばかり思っていた管理人でした・・・(苦笑)

また妙法寺記にも、こんな記載があります。

 

去る間此の年中、谷村へ御越し候て、新屋敷を御立て候。
やがて成就なされ候。
御上意
(武田信虎)わたまし(御転宅)、御越し召され候。
一家・国人皆々御越し候。

 

谷村館の新館完成に際して信虎からも新築祝いの使者が送られ、国中からも出向いてきたという記述です。

小山田氏は谷村に居館を移すと共に、大月の岩殿山に要害城を構築しました。

武田氏の躑躅ヶ崎館と、要害城の関係と同じだったのでしょうね。

 


今度は、甲斐国志による岩殿山城跡についてみて見ると、

 

麓より登ること七町にして、岩殿権現の祠あり。
岩中を屋字として柱を建つ、天井は自然の一片岩なり。故に岩殿山と云う。

 (中略)
一の堀・二の堀・本城・馬場・大門口・蔵屋敷と云う地名あり。
池二つ、常に水を湛えて旱天にも涸れず。亀ヶ池と名付く。
一は用水、一は馬洗い水なりと云う。
 (中略)
山上より望めば前は桂川を隔て大月・駒橋・殿上・猿橋等の諸村眼下に連なり、北は畑倉・奥山、又東南に岩殿・強瀬の諸村山下に在り。
周囲凡そ三十町余り。
又北の方、堀岸より半町ばかり登りて平地あり。出丸と云う。
小山田氏の頃は、此の山上に士多く在番せしなるべし。
『甲陽軍鑑』に駿河に久能、甲州に岩殿、上州に吾妻、三所の名城とあり。
小山田は中津森、又谷村に居館あり。
此の山をば要害に構えたり、行程凡そ三里。

 

伝説の亀ヶ池等の記載も見られますね。

興味ある七社明神と、孝阿比丘尼を甲斐叢記で見てみました。

 

伊豆、箱根、日光、白山、熊野、蔵王、山王、七座の神を配し祀る神体は木像にて各七尺あり、行基僧正の作なりと云えり。
岩窟の中に柱を樹て、床を張って祠殿とせり。
天井は自然の一片岩なりよりて岩殿といふぞ、岩尖より細流の落る事霤
(あまだれ)の如し相伝へて。

平城天皇大同元年の鎮座にて、創造の棟札ありといへり。
別當は本山修験常楽院なり、又、大坊院真蔵院の二箇寺ありて、相ともにこれを司祀る社領十四石余り寺号を岩殿山円通寺といひて寺田一町八段余りあり。
行基僧正の刻める観世音を本尊とす。

三重搭あり九輪の下の舛形に銘文あり。
承平三年七月廿五日、大檀那孝阿比丘尼とあり。
此尼何人なりけむ詳ならず、搭の南に比丘尼屋敷といふ所あり。
又、古塚あり孝阿塚と云ふ。搭の前より北西へ険しき山路を攀躋
(よじのぼる)は岩殿の社殿に至る。
又、山下の北向に新宮あり、十一面観音を安置す、此地も岩窟の内にお堂を建て、自然の岩天井ありて七社と同じ造構なり。

冷水あり岩の上より堂の前に流れて数十丈の谷に落つ甚奇観なり。
炎暑の頃も此の窟の中に入れば寒慄ばかりの寒さを覚ゆとなり。

 

 

七社権現については非常に興味が湧いたので、他の記述も紹介しましょう。

小山田氏はこの七社権現を祈願所と崇め、信仰を捧げています。

天文十九年(1550)には小山田信有の病気平癒を祈り、桂林寺の住職が参詣、円通寺大般若経裏書にその祈願を住職自らが書き入れています。

桂林寺住持比丘前祥興三栄叟元松。
天文十九庚戌自卯月晦日至五月三日。
一心転読其情旨、大檀那小山田出羽守信有。
当病早喩、転禍為祥之砌也。

また、永禄十一年(1568)には小山田信茂が小田原攻めの戦勝と、武運長久を七社権現に祈念しています。

 

文明十九年(1487)京都の聖護院道興も、廻国雑記にその様子を記し、歌を詠んでいます。

『かくて甲州にいたりぬ。岩殿の明神と申して霊社ましましけり。参詣して歌よみて奉りける。』

『あひかたき 此岩とのの神やしる 世々に朽せぬ 契ありとは』

 

七社権現の御神像は山梨県の文化財指定を受けています。

全部が立像でヒノキ材、平均の高さは2b余りで、中央の平将門がモデルと云われている物が一番大きく、2b30aあり、現在は円通寺跡に残る真蔵院に移されています。

 


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