勝頼の幼君・芍薬塚

 

天正十年三月九日、新府城を焼き、石和の宿まで落ちてきた勝頼主従の隊列にまじって、乳母に抱かれた幼児の姿が痛々しく人々の目に映りました。

石和の宿半ばにして勝頼は馬上で幼君の泣き声を耳にして馬を止めました。

乳母の懐に抱かれた幼君はお腹でも空いたのか、火のついたように泣きじゃくり、容易にその泣き声は止まりません。

この幼君は勝頼側妾の男子であるのか、はたまた信勝の子かは謎・・・

名門武田の最後が迫り、うちひしがれた将兵の中にあって、乳母は早くなだめようとすれば、帰って自分の方が泣けてくる思いでした。

勝頼はしばらくその哀れな様子を見ていましたが、はたと思いつくことがあって、近臣の渡邊嘉兵衛を馬前に呼びます。

「嘉兵衛、そなたに頼みがある」

「へい、わたくしめに出来ますことなら何なりと」

嘉兵衛は頭を垂れて一礼しました。

「今、しきりにすねているその子を見て不憫でならぬ。いずれは勝頼の子として首討たれるかも知れぬが、その僅かの間でも良いのじゃ、この子を育ててくれぬか」

「へ、へい、御言葉とあらばこの嘉兵衛、命にかけてもお守り致しますが、御殿の大事を前に嘉兵衛ここよりお別れいたすのは後ろ髪ひかれる思いに存じまする」

「心遣い無用じゃ。勝頼の男子をつつがなく育てかくまうことも大事じゃぞ。その子の行く末、しかと頼んだぞ」

と言うことで、嘉兵衛は弟二人と共に幼君を守ってこっそりと某屋敷に篭りました。

言い伝えによるとの預かった勝頼の男子は、間もなく三日三晩泣き明かして後、急死してしまったと言うことです・・・

この幼君を葬ったと云われる塚が、石和にあるという伝承を発見しました。

 

平成14年、石和川中島合戦絵巻に出陣する為に石和へ訪れ、限られた時間の中で探したのですが、とうとう発見できずじまい・・・

しかし翌年の平成15年春、このサイトでもリンクしております「武田氏とそのゆかりの人たち」の管理人・お松さまから、芍薬塚の場所を発見!という情報を頂いたのです。

武田神社例祭・武田二十四将騎馬軍団行列を見に行く為に前日から甲斐国へ入国、その足で芍薬塚を訪問することになりました。

この芍薬塚は春日居町鎮目にあり、「雁坂みち」から春日居中学へ向かう細い道路へ入ると、すぐに判りました。

ほんとうに小さな一角で、民家の裏庭にありました。

芍薬塚

 

ここで、甲斐国志の文を紹介してみましょう。

巻之九十五 人物部第四

○武性院斉理周哲大童子

渡辺嘉兵衛と云う者、二歳の児を保護して鎮目村に匿れ翌未年三月七日夭すと云ふ

巻之百三 士庶部第二

○渡辺六郎左衛門

軍鑑に高坂弾正衆なり、家記に云ふ、天正八年駿洲沼津の役に死す (中略) 其の子源左衛門 (中略)

今の里長が先祖なり、源左衛門の子嘉兵衛久郡・瀬兵衛、壬午三月武田勝頼落足の時、幼主年二歳なるを抱持して本村に退き、密かに保護す。

翌年癸未年三月七日幼主病て夭死せり、兄弟大に歎き密かに一町田と云う処に葬り芍薬一株を植えて標とす。

武性院斉理周哲大童子と謚せり、以来渡辺氏の後たる者歳時に奠祀して今に至る (中略)

勝頼の幼子武性院童子の墓は芍薬塚と称して鎮目渡辺氏旧屋敷内に現存す、塚上に小碣あり童子の法謚を刻す、其の側面に武陵源幹撰文ならびに書の墓誌を刻せり詳に塚の由来を述べたり行文哀切、一読暗涙を催さしむ、(以下略)

 

芍薬塚、そして小山田信茂の首塚

町指定史跡・芍薬塚(伝・武田勝頼遺児の墓)

天正十(1582)年三月武田勝頼は新府城から岩殿山目指して落ちていった。
この時武田の臣渡辺加兵衛久郡は主君勝頼の命により一族を率い、ひそかに二歳になる幼主(男子)を自分の在所である鎮目村にかくまった。
しかるに幼児のため、日夜泣きあかし、翌年天正十一年三月不幸にも病死してしまった。
渡辺氏は自分の屋敷(鎮目一丁田)の一隅に葬り、芍薬を植えて、後世を弔った。
その後文化四(1807)年に加兵衛の子孫渡辺太郎兵衛保らは墓の荒廃を嘆かわしく思い、新たに石碑をつくり、芍薬も株分けして、現在地に改葬した。

案内板より

 

武性院斉理周哲大童子

漢文で塚の由来が・・・

この石が元の塚だったのでしょうか・・・

 

では、石碑に見える漢文の訳を紹介しましょう。

天正十天年壬午、武田氏が亡んだ時、その臣渡邊加兵衛久郡は一族率いて主君勝頼の後を慕い追う。

主君の子。

二歳を鎮目に逃がしてこれをかくまい、その成長を願った、ところがその子は翌天正十一年三月に早死してしまった。

そしてその子を加兵衛の別荘に葬り、石を盛って祀り、そこに芍薬の花を植えた。

その後久しくこの墓を守っていたが渡邊家は産を失い別荘をおいて他へ居住を移した。

この墓の中の宝器でも目当てか、墓はその後の天明年間に盗まれて荒廃が久しく続いたが、渡邊孫太郎兵衛の代に到って志を同じくする兄弟縁者が集まって此に墓碑を再建した。

 

さて、今年は善光寺御開帳でしたね!

平成15年の石和川中島合戦戦国絵巻前日、甲斐善光寺へお参りしてきましたが、その時に是非とも行ってみたかった処があります。

善光寺の先、地場産業センターを過ぎて甲府北バイパスを渡り、少し行った農地にひっそりと佇む塚があります。

これが小山田信茂の首塚と云われている塚です。

同行しました「北秦野案内図」の管理人・およねさまに案内してもらい、無事に小山田信茂の首塚へ行くことが出来ました。

何でもこの塚の供養は欠かさずに行われており、また、毎年一度は小山田氏関連のかたも供養に訪問しているという事です。

このお話も、およねさまから伺いました。

この小山田信茂の首塚は甲斐国志にも描かれています。

古跡部第一 山梨郡万力筋

○小山田左兵衛尉信茂墓

東光寺村の南、善光寺の三門前へ出る道の傍にあり上に榎を植えたり、天正壬午年の時、信茂詐り謀りて勝頼父子を誘引す。

父子敗死の後、織田家の報賞を得んとて都留郡より出で来り忽ち惨殺せられしなり軍鑑に信茂及び武田左衛門佐・小山田八左衛門・小菅五郎兵衛、四人は甲府善光寺にて殺さるとあるは即ち此処なり。

里人此墓を旗持地蔵と呼ぶ。

今回の芍薬塚と小山田信茂の首塚を訪問して強く感じたことは、皆さまの御協力があればこそ知り得た地なので、本当に感謝しております。

また、小さな塚は時として忘れがちになってしまいますが、それなりの歴史が隠されているのですよね・・・

地元にある、小さな塚や祠の謂れとかを調べてみるのも、また愉しいものかもしれません。

何か新しい発見があるかもしれませんよ!!

管理人の歴史の楽しみ方、それは伝承を追ってその地へ行ってみること。

今後ともこのスタンスを変えずに、楽しい史跡巡りを続けていこうと思っています。

また、読者の皆さまからの情報もお待ちしております〜

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