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伝説をお読みになりましたら
岩殿城が名城とうたわれる根拠として、他に例を見ない全山が険しい岩石で覆われていることと、山頂に古代より湧き水があることです。
八百六年(大同元年) 行基上人が岩殿山に参り、東方山腹にある洞窟にこもり、七社権現や円通寺本尊の十一面観音六を造顕したと伝えております。
ある夜、行基上人は不思議な夢を見ました。
長い杖を持った白髪の老師が夢枕に立ち、
「上人よ、翌朝山頂の広場の下の窪地に白い石がある。その所を掘るがよい、必ず綺麗な水が湧き出るであろう」
行基上人はびっくりして目が覚めました。
そして夜が明けるのを待って教えられたようにその場所を掘ってみました。
すると、まさしく清水が湧き出てきました。
上人はたいへん喜び、これは神のお恵みであると弟子達に大きな穴を掘らせて、そこを井戸としました。
そして神から授かった水として霊泉と名付け、いっそう業に励んだということです。
岩殿山が関東一を誇る修験場として、修験者が各地から多く集まり、有名な霊山となったのも山頂に井戸があり、修行中下山することなく何年も岩山や洞窟にこもって修行できたからでしょう。
戦国時代となって郡内守護・小山田氏はこの岩殿山にいち早く城を築き、この井戸を亀ヶ池と呼びました。
というのは、いつもこの池に亀を飼い、敵の忍びが侵入して池に毒薬を投入したのを、この亀の生死によって知ろうとしたからだそうです。
亀ヶ池は今も霊泉が湧き出て、飲む事が出来るそうです。
また、この池はどんなに日照りが続いても枯れた事が無いと伝えられ、近世には雨乞いの池ともいわれています。
幾月も雨が降らず、農民達の作物が枯れてしまいそうな時、岩殿山円通寺(今は廃寺)の住職により、護摩をたき呪文を一心に唱えながらこの池の水をさらうと大雨が降るというお話も・・・
むかし、岩殿山麓に円通寺という関東でも有名なお寺がありました。
この寺には本堂、三重搭、七社権現堂、不動堂、常楽院、大浄院、大坊などの伽藍が立ち並び、多くの若い僧や修験者がともに生活していました。
その中に大乗と常楽という名の若い僧がおりました。
この二人はたいへん仲がよく、何をするにも話し合い、励ましあっていたので住職からもたいへん信頼され、特に可愛がられていました。
ある日の事、二人は何か修行を積んで偉い人になろうと相談をし、修験道の法印になる事にしました。
二人は岩殿山中腹の七社権現洞窟にこもり、辛い修行に入りました。
水ゴリや滝にうたれたり、一夜にしていくつもの山を歩く回峯術や、法螺貝によって人を射ち殺すという声貝術、悪霊退散の護摩封などの修行を一心不乱にかさね、ついに初心を貫き法印になりました。
すなわち、一人は大乗院といい、もう一人は常楽院と呼びました。
しかし、二人はこの官位に満足せず、さらに業をみがくのに一生懸命でした。
そして二人はいつしか、強い競争心に燃え、ついに敵意を持つようになってしまいました。
話し合いがけんかとなり、日増しに仲が悪くなっていきました。
来る日もくる日もけんかばかりしていたので、生活までも苦しくなってきました。
二人は昔鍛えた腕力にものをいわせ、旅人や村人を脅して金品を取り上げたり、言いがかりをつけて悪行を働くようになったので、村人からもすっかり嫌われてしまいました。
あきれ果てた住職は二人を呼んで、
「以前はとっても仲のよかったおまえ達、けんかばかりして肝心の修業はどうした?それに、村人を脅して金品を奪うとは、修験者としてあるまじき行いだ。今日からこの寺を出て行け!」
と、二人を追放してしまいました。
大乗院は対岸の葛野村に移り住み、今も大乗屋敷といい、また常楽院は岩殿山北麓の新宮洞窟に住むようになりました。
けれども二人の仲はいっこうに好転しません。
ついには法螺貝を吹きながら、呪い合いの殺し・・・声貝術を始めました。
しかし、なかなか勝敗がつきません。
何年も何年も続きました。
そしてある日の事、けんかの勝敗を決しようとする法螺貝の音が葛野川を隔てて、同時に双方から高らかに響き渡りました。
その瞬間、突然岩殿山から強風が起こり、殺気のこもった常楽院の法螺貝の、呪いの音が風下にいた大常院の胸元に突き刺さったのです。
このとき、大乗院は常楽院を睨んだまま、
「天、我に利あらずしか・・・」
と、天高く叫び、立ったまま死ぬ 「立ち往生」 と、なりました。
この話は甲斐国中に広まり、葛野村の人達は大乗院を神とあがめ、村の入り口に守護神として祀り、村に悪魔の入るのを防ぐ神としました。
いまでもこの社は、葛野下サス宮にあり、毎年8月の末、村人によって盛大にお祭りが行なわれているそうですが、常楽院のお墓は何処にも無いそうです。
岩殿山腹には十数個の洞窟があるそうです。
最大の横穴は新宮洞窟で間口30メートル、奥行20メートルもあるそうで・・・
次いで七社権現洞窟、また、岩殿落城のとき法印勝玄が隠れたという勝玄洞窟などが有名です。
その中のマセ穴は高さ150メートルもある「稚児落とし」絶壁の下方にある穴で、坑口は昔から人が入れないように「マセ棒」が横に2本渡してあり、馬屋の入り口に渡す棒と同じでマセ穴と呼ぶようになりました。
坑口から2メートルの奥は二の畳広さがあるそうです。
一五八三年(天正十年)三月十一日、清和天皇の流れをくむ武田一族も天目山の露と消え、続いて三月二十四日、郡内岩殿城主小山田氏も織田勢の手によって甲斐善光寺の境内において打ち首となりました。
当主を失った小山田氏の残党は数千にも及んでいました。
その一隊が敵の目を逃れてこの岩壁の下に来たとき、
「おい、ここに大きな穴があるぞ!馬を入れてみろ」
と、馬を追い込んだところなかなか馬が出てきません。
「どこへ行ってしまったんだろう?」
捜してみたが、穴は奥の方まで続いていて、馬の姿は見えません。
この馬は、後に鎌倉で発見されたということです・・・
「おい、この穴に、持ってきたものを隠せ」
と、馬具や太刀などの武具や小山田家の宝物などを隠し、残党はいずことなく消えました。
奥山の麦打ち歌の一節に
”岩殿山が荒れて出る。弓と矢と小旗のさおが流れ出る”
また、岩殿では
”朝日さす夕日輝くそれその木のもとに小判千枚二千枚”
と唄われ、小山田家滅亡の時、再期を念じつつ軍資金や宝物、武具などを埋めたものといわれています。
話は変わりますが・・・
建久年間(1190〜1199)将軍源頼朝の家臣で壇ノ浦の合戦のとき仁村紀四郎親清を遠矢で射落とし誉を上げた、浅利与一義遠の手植えの木と伝わる木があります。
この木は昔から触ったり切ったりするとたたりがあるといわれ、里人から恐れられていました。
昭和のはじめにこの近くに遊びにきた子供達が、悪戯半分に切ったところ、その年はこの里に凶事が続いたといわれています。
いまはこの里の入り口に浅利与一の石の地蔵尊が祀られています。
これは大月市内最大で、3メートル程もあるそうです。
岩殿山から大手門跡、築坂峠、兜岩・・・北西約1キロメートル行くと、高さ150メートルに及ぶ岩壁の上に出ます。
ここで話をすれば、その声が数ヶ所にも響くので村人はその昔 「呼ばわり谷」 と言いました。
この道は小山田氏がいざ 「岩殿落城」 というときに、東奥山から奈良子や瀬戸、または金山方面へ落ち延びる道と定めていました。
武田家滅亡の際、小山田信茂とその一族郎党は織田方の命により甲斐善光寺に出頭するという混乱と同様を極めていました。
小山田氏の残された婦女子は、この落城の道から脱出する事になりました。
小山田夫人は家臣の小幡某にツヅラを背負わせ、二人の子供を連れ城内の婦女子と共に、築坂、兜岩方面に落ち延びました。
「呼ばわり谷」 の上まで来たときに、急に背中の子供が泣き出しました。
夫人は背中から下ろして乳を与えたり、あやしたりしましたがどうにも泣き止みません。
そのうえ、他の子供までが泣き出し、その泣き声は 「呼ばわり谷」 に響いて敵兵に発見されてしまいました・・・
夫人達はやむなく、涙ながらに子供を岩壁上から落とし 「雁ガ腹すり山」 方面に逃れました。
そのときから、 「呼ばわり谷」 を 「稚児落とし」 と呼ぶようになり、子供達に最後の水を飲ませたところは 「水くれ堂」 と呼ぶようになりました。
夫人はがっくりと肩を落とし、暗い夜道に耐える体力も失い、この峠でただ一人となった家臣と別れ、覚悟を決めました。
峠の頂上で従者の小幡某と別れ、涙の内に受け取ったツヅラを持ち、峠を下り小和田の長生寺末寺の東光寺に逃れこの地で生涯を終えました。
夫人はこの寺の床下で自刃して果てたと伝わっています・・・
また、峠の麓には近世までこのツヅラを保管していた旧家があったらしいです。
村人は悲しみを込め、この峠を 「ツヅラ峠」 と呼ぶようになりました。
その後、 「稚児落とし」 の麓、浅利郷の人たちはこの岩壁上に子供達の霊を祀りましたが、甲斐の国を占領した織田・徳川の権勢を恐れて 「天神様」 と呼びました。
また、一説には、岩壁に捨てられた子供達は、浅利郷の名家の子として成人したともいいます。
近世にいたり、 「稚児落とし」 の下から子供の遺骨や古い武器が発見され、在地豪族の鈴木勝玄を祀る、勝玄洞窟に合祀されたといいます。
この洞窟内で戦没者四百年祭が行なわれ、「権大僧正都法印勝玄 武田勢 小山田勢諸地縛霊供養塔」 が建立されたとのこと・・・
岩殿山に七社権現や円通寺が開創されて、百年ほどたった九三一年春、岩殿山円通寺に一人のうら若い容姿端麗な、紫の法衣をまとった高貴な尼僧が訪れました。
「もしもし、お頼みいたします」
と、きれいな声に小僧が出てみると、
「わたしは孝阿と申す尼ですが、和尚さまにお取次ぎをお願いします」
びっくりした小僧は、
「しばらくお待ちください」
と、奥へ走っていきました。
まもなくおもむろに白いあごひげを撫でながら和尚が現れ、
「愚僧が住職だが、そなたは?」
「わたしは孝阿と申します。若狭の国からはるばるこの寺を訪ねてまいりました。どうぞよろしくお願いします」
と、ていねいに頭を下げました。
和尚は孝阿の気品と美しさに驚き、客間に招きました。
話によると孝阿比丘尼はもと公卿の娘で、学問に励んでいましたが、18歳のとき故あって髪をおろし尼になったといいます。
そしてこのころ関八州を制圧し、自ら新皇と名のった平将門と縁のある女だとのことでした。
しばらく逗留している間に孝阿比丘尼は紫の法衣を賜る高僧だけあって、素晴らしい読経や見事な写経、そのうえ易や暦の作り方などに優れ、その美貌と共にたちまち郡内一円はおろか、関八州に名が高まりました。
ある日、孝阿比丘尼は和尚さまに、
「このお寺は八百六年、行基上人が開山された由緒あるお寺です。伽藍も整い立派ですが、何かいまひとつ物足りません。どうでしょう、三重搭を建てましたら」
と申し出ました。
当時の円通寺は本堂、不動堂、常楽院、大坊院、真蔵院などの坊が立ち並び、七社権現堂の修験道場には四十一名もの法印がこもり、関八州から修験者が集まり、栄えていました。
そして孝阿比丘尼の呼びかけにたちまち資金も準備され、円通寺本堂の西に三重搭が建立されたのは三年後の短期間でした。
欅造り朱塗りの搭は朝日、夕日に輝いたといいます。
九百三十三年七月二十五日、見事完成した三重搭は関東全域から信者が集まり、盛大に落慶法会が行なわれたといいます。
本尊は釈迦如来、脇土は文殊、譜賢菩薩と伝えられています。
しかし、この搭は明治八年修験道廃仏令によって解体されました。
その一方で、九百三十九年、平将門が一族と共に滅びました。
その次男、相馬平常門は武蔵の国青梅の里より、将門ゆかりの人で関東一を誇る円通寺の人気尼僧孝阿比丘尼をたよって郡内に入りました。
孝阿比丘尼は恩人将門の次男と聞いて、さっそく使者を送り、七保町駒宮の地に御殿を造り、迎えました。
常門一族は関東八平氏のうち、武勇に優れた一団で、特に馬術に優れた家臣と共にこの地に落ち延びたと伝わっています。
岩殿山の見える御前平に砦を築き、広い原に馬場も造ったそうです。
また、七社権現立像は平将門一族を表現したものとも言われ、常門が畑倉の春日神社を崇拝したと記されている古文書もあるそうです。
十世紀のはじめ円通寺に三重搭を建立したり、この寺の発展に尽くし、また、草深い郡内に色々の文化をもたらした孝阿比丘尼。
尼はいつまで経っても年をとらず、若くて天女のように美しく、学問にも優れていたので、八百比丘尼と呼ばれ崇められていました。
その美しい容姿は高齢まで衰えず、長寿を全うしました。
八百比丘尼を葬った塚は三重搭跡地の西方にあり 「孝阿塚」 と呼ばれ、訪れる人が絶えなかったといいます・・・
郡内には鎌倉時代、鎌倉から相模川、桂川をさかのぼって鎌倉文化が伝わりました。
岩殿城主小山田氏の菩提寺桂林寺、長生寺をはじめ多くの寺院が建長寺派に属しています。
これは、鎌倉武士の精神を支えた鎌倉五山の影響をうけたものでしょう。
大月市葛野の福泉寺に、本山の建長寺管長が布教のため訪問するというお達しがありました。
管長じきじきの説教は初めてということもあり、名主をはじめ役人達は、村の人々を集めて寄合を開きました。
「村の衆、本山の管長さんがお寺に来るというおふれがあった。管長さんは全国を布教のためお回りになって、夜は名主の家に泊るそうだ。
管長さんは、犬が大嫌いだから、村中の犬を繋いでおくように。
それから偉いお坊さんだから、そそうの無いように、御馳走も充分容易してくれ」と、村人の人達に頼みました。
数日後、村中の者に説教を済ませた管長さんは、駕籠で名主の家に着き、玄関から奥の間に通されました。
管長は名主に、
「明かりは暗くてよい。給仕などしなくてよいから、部屋にはいってはならんぞ。
食事が済んだらお風呂に入るが、決してのぞいてはならぬぞ」と言って、人払いさせました。
やがて食事が済んだ管長さんは入浴も済ませ、再び部屋に戻りましたが、食事の後片付けをしていたお手伝いに人は、食べかたが乱雑で箸も使っていないのに驚きました。
また、風呂に入った管長さんは風呂場でピチャピチャよ大きな音を立てたり、天井まで飛沫が飛び散っていて、とても偉いお坊さんの作法とは思えませんでした。
翌朝管長さんは
「大変お世話になったお礼に」
と言って、掛け軸を書いてくれました。
名主はこれを宝物として大切にしていましたが、何故か署名の印が猫の足に似ていたそうです。
数年後、名主が病気になり、なかなか治りませんでした。
ある日、一人の易者が訪れたので見てもらったところ、
「この家にある宝物の祟りだから、それを氏神様に奉納するように」
と、勧めました。
名主は管長の掛け軸をすぐに氏神様に奉納しました。
奉納を済ませた名主は家に帰り一休みしていると、近所の者がやって来ました。
名主は今までの経緯を残らず話しました。
ところがどうもおかしいということになり、若い者を氏神様に走らせてみると掛け軸はもうありませんでした。
管長さんはこうして諸国を豪遊していましたがその後、東海道を上方に向う途中、行列の中に大きな犬が駆け込み、管長に襲いかかりました。
駕籠の中には年老いた大きなムジナの死骸が残っていました。
これは、建長寺の裏山に住んでいたムジナが、御馳走にあずかる為に策を講じた大芝居だったのです。
この話はのどかで平和な山里の昔話として語り継がれました。
そしてこの葛野の里の人たちは、今でも犬を見て怖がったり泣いたりしている子供らのことを建長寺さんのようだ、と、からかう風習があるそうな・・・