野間大坊 〜 法山寺(湯殿跡)

 

 

源義朝公のお墓

平治元年十二月、源氏の総帥左馬頭義朝公は京都六波羅の軍に敗れ、家臣である鎌田政清、平賀四郎義宣、渋谷金王丸、鷲栖玄光等と供に東国へ下る折、長田忠致の館に滞在しました。

長田忠致は鎌田政清の舅でもあり、源家相伝の家臣ですので、当初は種々の饗応をして義朝公等をもてなしていました。

しかし、長田忠致と子・景致との謀反により御湯殿において謀殺されてしまいます。

「我に小太刀の一本でもあれば、むざむざ討たれはせん」

と、悲痛な一言を残されて最期を遂げられたことから、その慰霊の為に義朝公のお墓には木太刀を献ずる慣わしが出来、山のように積まれています。

木太刀御奉納の方はすべての願いが叶うという謂れがあり、お参りに訪れる人の願いが溢れていました。

自分も木太刀の護摩の替わりに、左馬神社のお守りを奉納し、

「義朝公を祭神としている神社が残されているのですよ」

と報告し、お線香をあげてきました・・・

源義朝公御廟
源義朝公御廟


木太刀にはお願いが・・・

 

 

鎌田政清妻のお墓

貞操美談として、鎌田政清の妻を後の人々は伝えています。

長田忠致の娘である鎌田政清の妻は、夫が舅の為に謀殺に遭ったと聞き、その亡骸に走り寄り父の無道逆心を恨み歎きました。

悲哀の涙極まりなく、夫の短刀を取って直ちに死骸の傍に自害しました。

後の人々はこの話を激賞して貞女鏡及び烈女伝等に詳しく載せたり、美徳称賛の碑を建てました。

鎌田政清並びに妻平氏の墓
鎌田政清並びに妻平氏の墓と書かれていました

 

 

大御堂寺開運地蔵菩薩縁起

当山客殿安置地蔵菩薩は元右大将源頼朝公の守り本尊なり、

平治の乱に公年僅かに十三、父義朝公に従い激戦数刻、遂に軍敗れ父子従者と共に東に走り、美濃国小野の宿まで落ち延びしが、

偶々大雪に遭い、馬上のまま一人父兄と相失い、道に平盛頼の臣宗清の為に捕えられ、京都六波羅に連れ行かる、

清盛之を斬に處せんとす、時に清盛の継母池之禅尼は、己が末子馬之輔病死して悲嘆の愛情に沈みつつある折とて、

公を哀れみ之を引見するに其の容顔馬之輔に良く似たれば、再三再四、力を尽くして清盛に其死を許されんことを請う。

清盛やむを得ず之を許し、豆洲蛭ヶ小島遠流せり、


誓願寺(熱田神宮近郊)
源義朝の妻、藤原季範の娘が、
この地で頼朝を産んだといわれています


池之禅尼の塚
野間大坊の義朝公御廟敷地内にあります
其の時、尼公は歓喜の余り己が持佛堂に安置せし地蔵尊を取りだし公に与ふ、

公は是を得て背に帯び東に下る、

以来、公の尊崇浅からず、謫所に在りて心密かに源氏再興の祈願をお越し、

此本尊の霊験により終に天下を掌握せり、故に公は是を開運地蔵菩薩と名付けられたり、

其の後、建久元年父義朝公の廟参ならびに堂供養の節当地に来り、

記念として収められし霊佛なり、彫刻者は日本佛師の権威たる定朝大佛師なりと云ふ。

よって古来将軍武将の崇敬帰依篤く、武功をたてられし者少なからず、殊に頼朝公の開運出世に因み大願成就を祈誓し、

不思議の利益を受くる者多く衆世の信仰頗る深し。

 

 

野間内海スケッチ

長田父子磔松

開運地蔵菩薩

遠方から見る、磔松です。
皆さま、気が付かれましたか?
源義朝公最期絵解きの文で、長田父子に美濃尾張を与えると、頼朝公が言ったのは・・・
実は「身の終り」だったのです。

中央にあるのが野間大坊本殿(客殿)の開運地蔵菩薩です。
源頼朝については、御住職さまがこう言っておられました。
「何百年もの武家政治を築いた頼朝は西洋ではナポレオンよりも尊敬されているのですよ」

唐人お吉先祖のお墓

織田信孝のお墓

内海の西岸寺には唐人お吉の先祖のお墓がありました。
無縁塔の中にあったものを、解体修理して取り出したものだそうです。

信長の三男織田信孝は、天正十一年(1583)岐阜城の戦いで織田信雄・羽柴秀吉に敗れて内海に逃れました。
大御堂寺において自害、そのお墓が義朝公御廟所内にあります。

唐人お吉像

長閑な野間の風景

小高い丘の上にある西岸寺を下ります。
温泉施設の駐車場にはお吉の像が建っていました。
お吉は天保十二年、船大工市兵衛の次女として内海西端村で出生したといわれています。

名鉄・野間駅から写してみました。
御湯殿跡がある法山寺は、奥の小高い山にあります。
よ〜く見てください、その手前の道の右端に乱橋の碑があるのが分ると思います。

 

舵取り観音の伝説

では、野間を歩いて見付けた伝説を紹介しましょう。

野間の里は千石船の昔より船と共に栄えてきました。

明治以後もこの伝統は継承され、数多くの船長や高級船員を輩出しているそうです。

これらの船員の生命の安全をお守りしたのが密蔵院にお祀りしてある海上出現の如意観音さまです。

昼夜の別なく参詣があり、そのため赤門は一度として閉じられる事はありませんでした。

第二次世界大戦末期の昭和十九年七月十八日、中村汽船所属の御用船・第十雲海丸は小笠原近海で米機の爆撃を受け沈没してしまいました。

吉田船長以下七名は一週間分の食料と水を用意して救命艇で脱出します。

日本本土まで一千キロメートル、観音さまの信者の船長はじめ乗組員は果てしない洋上を 「南無観世音菩薩」 と唱えながら必死に船を漕ぎました。

実に三十数日間漂流します。

観音さまの御加護があって日本近海を北上している強い黒潮の流れを突破して、その船は狭い伊勢湾の入口に見事に入ったのです。

更に不思議な事に、船長の家のある野間の沖を一昼夜も漂っていました。

仮死状態で救助された七名は出きる限りの手当てを受けましたが、一名は間もなく死亡してしまいました。

他の六名とやっと話が出きるようになったのは救助されてから三日目であったといいます。

戦時中のこと故、この信じ難い奇跡も限られた者だけが知るのみで、公表されぬまま終戦を迎え、今日に至っています。

この霊験記は、野間の古里と観音さまを愛する人々に、末代まで語り継がれることでしょう・・・

密蔵院・舵取り観音
野間大坊の近く、密蔵院の舵取り観音さま

このような小船の守り神なのでしょう〜
小船が奉納されていました

 

戻る

尾張の旅・目次へ

TOP