武田氏終焉の地・・・景徳院へ

(なお、この色のコメントは景徳院のしおりを基にしております事をご承知くださいませ)

 

天正十年(1582)に武田勝頼は織田、徳川二勢のために攻められて、居城の新府城を保つことが出来ず、家臣である郡内領岩殿城小山田信茂の誘いを信じて、居城を焼いて一族を引率して旅立ちました。

古府中を左に見返って歓楽の昔を偲び、石和、勝沼を経て柏尾にいたった。
そのときまだ従っていたのは7百騎でした。

ところが小山田信茂は、

「自分の村はこれから近いので、私がまず先に帰って、房中を掃除して夫人を迎えるための部屋を作ろうと思います」

と言いました。

勝頼はこれを怪しみましたが、敢えてその言葉に逆らうことをしませんでした。

勝頼一行は鶴瀬に滞陣し、駒飼の石見某の家に宿泊して、郡内領よりの迎えを待ちましたが、一週間も何の連絡もありませんでした。
やむなく小山田信茂に使いを出しましたが応じてきません。

そこで笹子峠を越えて岩殿に赴こうとしました。

小山田信茂はあらかじめ柵を山の上に結い、幟旗を立てて、狼煙を挙げ、盛んに威勢を張って勝頼たちを追い返しました。
勝頼は初めて小山田信茂の叛意を知り、悔恨し憤慨しました。
そして左右の者を召し、何か良い手立てはないかと尋ねました。
近侍の土屋惣蔵が進み出て、

「某は昨日逃れ、某もまた今日去った」

勝頼は憮然としてどうしたら良いかわからず、窮余の策として馬を馬飼から迂回して、天目山に行こうとしました。
ところが従う将士は僅かに三十人余り、従う女性が十六人でした。
女達を馬に乗せようとしても馬子は皆逃げて一人もいませんでした。

勝頼の主従は徒歩で険しい岩を上り、茨を押し退けてかろうじて田野村という民戸五、六戸のところにいたりました。

 

駒飼

笹子峠の麓にあり。
六百騎の兵を従え大月岩殿城主小山田信茂の迎えを待つも信茂は笹子峠に柵を結び烽火を挙げて反逆せり、勝頼欺かれたるを知り・・・ 御馬の鞍置く人もなく天目山に向う。

四郎作

初鹿野の水野田の東端にある小高い場所を四郎作と呼んでいます。

勝頼公が信長の連合軍に追撃され、勝頼主従が望みなき足を休め、御徒横手より瀬々久保、水野田に至り、陣をおきました。

その場所に、幽門の身であった小宮山内膳友信が主君の危急を聞き、後から汗馬を叱咤して追ってまいりました。

この場所で土屋惣蔵を仲立ちとして罪を許してくれるよう求めました。
その忠誠を感じた勝頼公は、すぐに許しを与え、小宮山内膳友信もまた、勝頼公のために奮戦いたしました。



矢竹沢

四郎作上方の山腹のことを言います。

小宮山内膳友信が矢種も尽き果て、この竹林から竹を切り取り、矢として用いて敵を防いだので、この名がついたそうです。

鳥居畑古戦場

日川を渡って田野に出ますと、その南に鳥居畑と称する場所があります。

ここは、秋山紀伊守、小宮山内膳友信、阿部加賀守等が、百人にも満たない少勢を指揮して、織田信忠の武将・滝川一益の軍と戦った地です。

滝川勢の四百余人を前にして奮闘、敵を数度にわたって撃退し、主君を最後までお護り致し勝頼公をはじめ従容死を決する時を与えたという、武田家滅亡最後の激戦地なり・・・

姫ヶ淵

後方駒飼方面より織田軍の将河尻肥後守の四千騎の銅鑼・法螺貝渓谷に響き攻め来たり。

一族従者の惜別の哀愁が残る本陣跡四郎作を脱した勝頼公主従は、田野に至らんと来たりしが、恐ろしさに堪えず貞節を重んじ腰元数人は天険断崖の淵に身を投じて殉死せり。



思案石

勝頼主従天目山に入らんと大蔵原まで来たりしが、謀叛小山田信茂の軍、岩殿城より山沿いに徳川軍と合して攻め来たり。
地の不可なるを察した勝頼公、路傍の大石に腰掛けて思案せしと伝う。

片手切

大蔵原の敵五千余りを小原丹後守、小原下総守が奮戦、土屋惣蔵昌恒が懸崖数丈の岩突起し、あたかも自然の楯の如き岩角に身を寄せて隻手で敵兵千人を切り、其間に勝頼主従田野の高地に引返せり。

三日血川

土屋惣蔵昌恒が雷闘峨に潜んで片手で敵兵を千人切って竜門が滝に落とし、水は三日間、紅に変わりし故に三日血川と伝えて今もなお亡き将の恨みをとどめている。

姫の湯

嵯峨塩の奥に姫の湯伝説があります。

勝頼の侍女一人が大菩薩峠へ向けて逃れる途中、ここで辻弥兵衛一味に襲われ身を守るため懐剣で喉を突き三日血川へ飛び込んだといいます。

それから後、ここに姫の血のように温かい湯が川の中から湧き出した・・・
という伝説です。

嵯峨塩〜田野〜初鹿野各温泉のことを指しています。

お勧めスポット・・・嵯峨塩温泉 (嵯峨塩館)




景徳院

天正十年七月、徳川家康公入国のとき、武田四郎勝頼公及び家臣一同の菩提の為、小幡勘兵衛景憲を普請奉行に命じ、一寺を建立。

小宮山内膳友信の弟僧拈橋を開山とし、寺領七十五石と山林七里余り、他に茶湯山を賜る。

山門

徳川家康の建立。
二階正面に十六体の羅漢像が安置され、弘化二年と、明治の火災に焼け残り、当時の面影を残した景徳院のシンボルであり、訪れる人々に懐古の思い出を深くさせる。

この十六対羅漢像は、お寺の了解を得れば、門の外側の狭い階段を登って拝観できるそうです。

甲将殿

境内霊地の中に在り、勝頼公、夫人、信勝公、3体の影像と殉難家臣の位牌と当時の遺品多数寺宝として保存されている。

武田菱の水瓶 (織田勢の大軍を迎え撃つ勝頼以下の武田勢が水盃を交わして決戦に臨んだものと推定されている)

勝頼公の守り袋 (勝頼自刃の寸前、家臣の田辺佐左衛門尉が楯無し鎧と共に預けたと伝えられている守り袋)



旗竪松

景徳院境内に在り。
勝頼公、事すでに急迫なるを見て武田家累代の重宝旗を大松の根本に立て、楯無鎧を世子信勝公に着用させ環甲の礼を行いし処。

環甲の礼

武田家の嫡子が元服の際に、甲斐源氏の象徴の一つである楯無の鎧を身につけて、世継ぎであることを臣下に公表する儀礼のこと。







勝頼夫人の辞世碑

『黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき 思いに消ゆる露の玉の緒』

甲乱記に記載されている十九歳の勝頼夫人の辞世の歌です。

北条の婦道教育を受けた夫人の最期は立派だったといわれています。

黒髪をつかんで切り落とし、その包み紙に辞世の歌を書いて小者に渡したと伝えられています。

勝頼夫人生害石

勝頼公生害石

信勝公生害石


甲将殿の前に勝頼公、北条夫人、世子信勝公生害せし処、夫人北条氏は最後の近づいた事を知り御みずからお守り刀を手に取り

『黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき 思いに消ゆる露の玉の緒』

 と短刀を口に含みしずかに打ち伏し給う、御年十九歳にして天目山麓に露と消える。

勝頼公も今が最後と相模方夫人のそばに近づきて

『おぼろなる月もほのかに雲かすみ はれて行への西の山のは』

 と詠じ夫人と列して大松の根本で生害せり。御年三十七歳。

世子信勝公、父君より少しはなれて

『あだに見よ誰も嵐の桜花 咲き散るほどの春の夜の夢』

 と詠じて生害せり御年十六歳。

武田家四百九十五年の新羅三郎義光よりの名門は涙と悲しみの中に滅亡せり。




没頭地蔵

境内の南にあり自然石の三体で石仏の座像で首がない三人を埋めた処。

首級をとられた勝頼、信勝、北条夫人の無念さをしのんで住人が墓近くの繁みの中に建て、没頭地蔵を動かせば祟りがあると言い伝えられています。

首洗い池

勝頼公、夫人、信勝公首級を洗った処、今も清水が湧き出ている。




こうして、武田勝頼公、信勝公はこの地で終焉をむかえたのです。

甲斐大和駅から、ずいぶん歩きましたが長い道のりは全く苦になりませんでした。

道すがら、甲斐の山々を見ては、数百年前にどんな思いで勝頼公一行がこの道のりを歩いたのか・・・・

そう思うと、胸が痛みました。

真夏の暑さの中でしたが景徳院へ来ますと、どことなく涼しさを覚えました。


景徳院を訪ねた後、その奥にある嵯峨塩温泉へ宿泊。

とても自然の豊かな宿で、庭にはリスが遊び、露天風呂ではクワガタが石の上で遊んでおりました。
鴨居には武田菱の飾りが施され、部屋の中も自然のイメージが取り入れられていました。
食事も大変美味で量的にもほどよく、また訪れてみたい温泉宿のひとつになっています。

是非、景徳院へお越しの際は訪ねてみて、なおかつ宿泊すると疲れも取れて、武田氏終焉の地をまっとう出来る事と思います。

景徳院とは関係ありませんが、武田氏滅亡に関係したエピソードをひとつ。

父恋し三本杉(牧丘町)

小楢山麓にある三本杉に 「父恋し三本杉」 という杉があるそうです。

戦国の頃、武田氏に仕えた信州の武士の惣右衛門が甲州に来て数年経ちました。

信州に残された妻と二人の子供は、惣右衛門がこの地にいることを知り、慣れぬ山路の旅を続けやっとの思いで訪ねてきました。

時すでに遅く武田氏が滅び、中牧城が落城し惣右衛門は討ち死にしたことを村人から聞きました・・・

あまりの悲しさに妻子は間分山の不動堂に入り、いまは亡き夫、亡き父の供養をすませ、この地で自害しました。

それ以来この山道を通ると雨風にまじって妻の悲しみ、子供の泣き声が聞えてくるそうです。

ときの名主はこの親子を哀れみ、三本杉を植えてその霊を祀り、近くに座頭塚を建て供養したといいます。

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