川中島の戦い

この戦は説明するまでもなく 上杉謙信との両雄対決です
信玄は北信濃を併合するため 北信の豪族大名を圧迫
彼らは謙信を頼み 謙信自らもまた信玄の圧迫を排除しなければなりません
この戦いは計5回にわたりました
第1回 天文二十二年(1553) 
第2回 弘治元年(1555)
第3回 弘治三年(1557)
第4回 永禄四年(1561)
第5回 永禄七年(1564)
このうち 激戦が行われたのは第四回の戦だったことも皆さんご存知でしょう


 

味噌なめ地蔵

須玉町若神子の正覚寺の門に通じる道の横に 『味噌なめ地蔵』 と呼ばれるお地蔵様があります

このお地蔵様は 川中島の合戦の時に武田信玄が川中島にあったものを運んだものと伝えられています

お地蔵様の体に縄を巻きつけて引きずってきたのですが 正覚寺の前まで来るとどうしても動かなくなってしまい これはお地蔵様の思し召しに違いないと 今の場所に安置されたといいます

ところで この寺の近くに 心優しいお婆さんがいました
お婆さんは地蔵様を拝みに来たところ お地蔵様の背中に いく筋もの縄の食い込んだ跡を見つけました

「おお おお 痛かったろうに・・・ 石仏にゃ味噌がいいちゅうて 早速塗ってあげます」
と お婆さんは家から味噌を持ってきて 地蔵様に塗ってあげました


それから何日かして お婆さんの家で病人が出ました
なにぶん貧しくて 医者に見せられないお婆さん
わらにもすがりつく思いで あの地蔵様を拝みにいきました
すると お婆さんの祈りが通じたのか 病人はたちどころに良くなったそうです

今もこのお地蔵様の背中には 縦横いく筋もの縄の跡が残り これは川中島の道でついたものといわれています

たいへん霊験のあるお地蔵様で 自分の病んでいる部分と同じ部分に味噌を塗って祈れば必ず治ると伝えられ 小さなお堂の中に鎮座するお地蔵様の体のあちこちには 今も新しい味噌が絶えません

不思議な言い伝えを持つお地蔵様は 今日も正覚寺に通じる道で 病に悩む人々の回復に力を貸してくれています

 

また こんな言い伝えもあります
武田信玄の初陣で 父信虎に従って海ノ口城を攻めましたが 落城させることができず一度引き上げた後 夜襲によって城主平賀源内を滅ぼしました

信玄は平賀源内の菩提を弔うことを正覚寺に依頼 地蔵が安置されたものとも伝えられています

  正覚寺

このお寺は甲斐源氏新羅三郎義光の菩提寺として知られています
場所は須玉町役場から車で2分/中央自動車道須玉ICから車で6分/「正覚寺」バス停から徒歩3分
参道入り口に この味噌なめ地蔵は安置されているそうです
新羅三郎義光の供養塔(お墓ではありません)が 法堂左手裏の40段程の急な石段を登った山腹に立ち 時代の変遷を確かめるかのように 若神子の町を見おろしています

 


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承知川

(その1)

武田信玄が川中島に出陣する際 諏訪大社秋宮で祈願をこめました
「もし謙信との戦いに勝たせていただければ 社を造り替えて差し上げます」
と 約束して出かけました

信玄は戦いに勝って意気揚揚と引き揚げ 下諏訪の町外れの川のところへ来たら 馬が前へ進みません
どうやっても進まないのです

そのとき 風がないのにハタハタと旗の音がしました
旗を見ると 「諏訪大明神」 と書かれています

それを見てお明神さまと約束したことを思い出し 信玄は秋宮に向かって
「お明神さま 約束は承知しました」
と叫ぶと 今まで一歩も進まなかった馬が スッスッと歩き出しました
信玄が承知したというこたから この川を承知川と呼ぶようになったそうだ

さて 社殿をよく見ると どこも悪くなっていないので立て替えるにはもったいない
他日その必要が出来たときの費用を差し上げておくが良いと思い その宝を地中に埋め

 朝日さし夕日かがやく榎の元に黄金千両朱千両(漆千両とも言う)

という 謎のような言葉を残していきました
後にそれがどこに埋まっているかと 家産を傾けてまで捜索した幾人かが伝えられているが まだ掘り当てた話は聞かないそうだ

(その2)

諏訪郡下諏訪町久保の旧甲州街道筋にあたる承知川に橋がかかっていました
武田信玄が川中島合戦に向かうとき ここからは下馬してほしいといわれたのを聞かずに 馬のまま橋を渡りかけたら にわかに落馬してしまった
そのため信玄は神徳を知り 歩いて社寺を巡拝したと伝えられています
つまり 信玄が承知した橋です

別の説では 承知は塩打ちのなまりで 神事のときここで塩を打って人を清める式があったことから塩打ち橋 さらに承知橋になったともいわれます

今は道路舗装で見えなくなってしまったそうです


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ばか火

川中島の西方 更級郡共和村(元長野市)大字小松原辺には 昔 ばか火というものが出たそうです

このばか火は毎年三月下旬頃から 四・五月ごろまでの小雨の降る晩に一番多く その火を遠くから見ると 普通の火のようにちらちらと縦横に燃えており 火に近寄っても声をかけなければ燃えていたが 咳などをするとたちまち消え 遥か遠方に3つ4つばかり見える 気味の悪いものだそうです

そして誰いうとなく 昔 川中島の戦いで死んだ人たちの亡魂であろうと ささやき合ったといわれてます


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奥の院武の宮と信玄杉

武田信玄が用いた「風林火山」の旗印は
「疾きこと風の如く 徐かなること林の如し 侵略すること火の如く 動かざること山の如し」
という 中国の『孫子』のなかの言葉です

信玄は「風林火山」の旗を押し立て信州に攻め入り 諏訪郡までおとしいれ 小県郡を押さえて 川中島に軍を進めようと 天文十一年(1542)甲州を出発しました

諏訪の葛窪に三日間滞在し 大門峠を越え 入大門に兵を進めそこにも三日間滞在しました

大門峠から来ると入大門の入り口には 部落の人たちが氏神とした 飯綱明神が祭られておりました

信玄は入大門に滞在したとき
「飯綱明神さま どうか川中島の戦いには勝利をわれに与えてください」
と 神前に鏑矢を奉納してお祈りしました

さらに 信玄は 二本の杉を自らの手でお宮の境内に植樹しこれも奉納しました

入大門を出発し 四泊を通って長窪に進み長窪城下の民家に火をつけるなどしてゲリラ戦を行い 長窪城を攻めないでそのまま諏訪の湯川に引きあげました

それからずっと後 信玄が飯綱明神の神前に奉納された鏑矢という 弓の矢をご神体にして 奥の院にお祭りしたので
「奥の院武の宮」 と呼ばれるようになって 今のお稲荷様の裏山に新しく 石のお宮が作られました

また お稲荷様の境内には ふた抱えもある二本の大きな杉が仲良く立ち並んでいます
この杉は武田信玄が手植えした杉ということで村人から 「信玄杉」 と呼ばれ親しまれ 今も大事にされているそうです


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毘沙門天の由来

永禄四年(1561)に武田と上杉の両軍が川中島で合戦した折 安茂里の正覚院(現安茂里観音)は戦禍を受けて火災を起こし灰燼に帰しました

このとき不思議にも 霊像一体が火中より出現し 大豆島(まめじま)村あたりに飛来し 去ってゆきました

大豆島の人達はもったいないことだと仮堂を建てて この仏像を安置しましたが たちまち仏罰があらわれました
そこで 里人は驚いて 正覚院へ返還するしないで話し合いましたが 評議がまとまりません

その折 高田村の何某の夢枕に毘沙門天が現れ
「われを祭れば必ず世の悪事災難を救う」
とのお告げがありました

その者さっそく大豆島に行き毘沙門天を拝したところ 夢の中の尊像と少しも変わっていません
彼はそのことを村人に語り 高田村へ供奉して新たな毘沙門堂を建立し ここに安置しました

それ以来 三百五十余年の星霜を経るも 当所に限り火難等の差障りなく 五穀豊穣 民家安穏を続けられたのは 実に毘沙門天ご守護のおかげだと 住民ひとしく感謝しているそうです


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筆よしの沢

大門峠から四キロメートルほど北に大門峠を下ると 追分を経て仏岩と外山にはさまれた狭い谷に出ます
この谷間を縫って大門川と大門街道が南北に走っています
北から見ると三角に尖っている外山はすそを北に長く引いて 広原と呼ばれるあたりまで延びています
この裾のあたりを昔は遠山と呼ばれていたそうです

ここは武田信玄が川中島出陣のため大部隊を率いて何回も往復し また休息したと伝えられています
ここは昔から普通のよし(葦)とちがって竹によく似たよしが十五本から二十本自生し 毎年すくすくと育っていました

大勢の家来を従えて ここまできた信玄は全員に休憩の命令を出し 自らも休憩しようとしました
ふと思いついた信玄は 休憩の間を利用して甲州に残してきた家族に手紙を書こうと矢たてを取り出したが 入れておいたはずの筆がありません

「しまった」と思いながらあたりを見回すと 道端のよしに気がつきました
信玄はこのよしを取って墨を含ませ 筆の変わりにしてスラスラ・・・と手紙を書きました

よしの軸は軽く 字が書きよいので 信玄はそれからこのよしを 筆の軸にして愛用したそうです
信玄がよしの軸を筆の軸に利用するようになったので それ以来土地の人はこの沢を
「筆の軸になるよしのある沢」ということで 「筆よしの沢」 と呼ぶようになったそうです


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