武田晴信初陣

 

天文六年 信虎は信州佐久の海ノ口城を攻めました
しかしなかなか攻めきれず 引き上げようとしたところ 晴信(信玄)が殿軍を所望しました
信虎は軍を引き上げましたが 信玄は城に残り 見事海ノ口城を落としました
しかし 信虎は兵引き上げた海ノ口城だから落とせたと 手柄を認めませんでした・・・

 


 

千曲姫

武田信玄がまだ晴信と言われていた初陣で 海ノ口城を攻めていた時の話です。

晴信に仕えていた女に 「千曲姫」と呼ばれている女性がいました
晴信が 海ノ口城を攻めていた時 使者としてその千曲姫を送り 和議をととのえようとしたのです

しかし 2,3日降り続いた雨のため 城の前面の湖は大変増水していました。
千曲姫が使いを果たしての帰り 船は転覆し 
千曲姫は行方不明となってしまいました

やがて城との和議が整い 晴信が帰国の途中 千曲姫が姿をあらわして
「本当の降参ではありません・・・ 用心なさいませ」
と言って 消えてしまいました
そこで晴信は敵の裏をかき 見事に大勝利を得て本国に帰りましたが 千曲姫の心に打たれ 姫の墓を建て厚く弔いました

なお 海ノ口付近を流れている川を
千曲川と名づけ 長く 姫の功績を残すこととなったそうです



平賀源心の胴塚

晴信が十四歳の時のこと 父 信虎が大軍を率いて 海ノ口城を何度も攻めましたが なかなか攻め落とす事が出来ませんでした
あきらめて引き返す途中 晴信は父からおよそ二百の兵を借りて 海ノ口に戻り あちこちの目立った場所に 色々な旗印を掲げて大軍に見せかけました

その頃 海ノ口城では信虎の軍が引き上げたと思い それぞれ城から出て 自分の持ち場に帰ってしまいました
城の中は 平賀源信のほかに わずかな兵しか残っていませんでした
この隙を見た晴信は 二百の兵を率いて どっと城に攻め込みました
この際 源心の奥方の大活躍があり 長刀を手に 武田勢をバッタバッタと斬り伏せましたが 多勢に無勢 ついに攻め落とされてしまいました 

城主の平賀源心は捕らえられ 甲府へ帰る途中 佐久の平沢で斬られ 胴をここに埋めたものといわれています
この場所は平沢の大門峠の峰に賽の川原という所にあり この塚の上には地蔵様が祀られているそうです
これは
 晴信初陣の覚えとして 源心を地蔵に祀り 刀は御弓番所に源心の太刀ということで 伝わっていたそうです

いっぽう 首の方は 若神子の路傍にあり 地名を源心田と呼ぶところに埋められ 首塚として祀ってあり 正覚寺の位牌には元信院平賀求堅大居士とあります





門松を立てない 正月の餅をつかないおはなし

小海町稲子の井手一族は 門松を立てないで台所の土間の隅へひとまとめにして飾るそうです
また 正月に餅をつかないとも言います
これは 平賀源心が海ノ口城を 武田信玄に攻められて 年の暮れに討ち死にしました
その時 平賀源心の家来であった井手一族は 門松を立てたり 餅をついたりする暇がなかった
それ以来 今でもそのとうりにしているそうです

また その当時の先祖を思えば 門松を立てたり 餅をついたりして 派手に正月を祝う事など出来ないからだとも言います
ある家ではお年越しの晩 縁側へ蓑と笠を置くことにしているそうです
これは 先祖が落人になってきたときの事を忍んで行う習慣だとか・ ・ ・




逆さ柏

武田信玄が平賀源心を攻めたとき 野辺山原のあたりで休憩をしたときの話です
信玄は そこまで突いていた柏の杖を逆さまにしたまま立ち去りました
その杖に根が生え成長して 逆さ柏と呼ばれるものになったといわれています
この木はけっして上には伸びず 枝も藤ずるのように地をはっているそうです


 

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三増峠の合戦

 

永禄12年(1,569年)10月 武田信玄は小田原の北條氏康との不可侵の約束を破って 二手に分けて小田原城へ兵を進めました
小田原城の北條氏康は 酒匂川で迎え撃つと見せかけて 篭城戦法をとりました
そのため信玄の三万余の兵は 3ヵ月間地団駄踏んでいましたが 食糧のこともあり 甲斐へ行きあげることとなった
北條氏康はこの時と 進撃の命を下し三増峠の合戦となりました
ここでは この合戦に関わる 
神奈川県の伝説を集めています



とうもろこしを作らぬ村(愛甲郡・清川村

清川村の法輪堂部落へ 北條方の落武者たちが逃げ延びて 経ヶ岳にたどり着きました
この時 落武者たちは樹間の向こうに何百本もの槍が鋭くたっているのを見て 伏兵が襲ってきたと身をかくしていました
しかし 多勢に無勢であると悟った落武者たちは 覚悟を決めます
みすみす犬死するより武士の花を咲かそうと 山深く入り 腹を掻き切って悲惨な最期を遂げたといいます

落武者が見たのは とうもろこしを切った後の茎でした
疲れきった落武者たちは それを見定める事も出来ず 槍と思ってしまったのでした
法輪堂の村人は このことを誰からともなく伝え聞き 
亡くなった落武者の供養に とうもろこしを作らなくなったといいます



そばを作らぬ村(厚木市・市島)

三増峠の合戦で甲斐へ引き上げていく武田軍の一隊がありました
この軍は三島一族といい 途中で道に迷ってしまったのでした
昼は伏兵の襲撃を恐れ 藪や草むらに身を隠し 夜の闇にまみれて甲斐へと向かっていました

三日月の出た夜だったといいます
山を下ろうとすると 眼下に白波が打ち寄せ 遥か向こうには箱根の連山がありました
兵たちは 甲斐へ向かっていると思っていたのが 北條軍の小田原へと向かっているのだ・・ 
もう逃げる事は出来ないと 切腹と刺し違えで一族は果てました

三島一族の見た波は 海ではなく そばの花畑で 箱根山と見たのは 市島に続く山々だったのです

このことを聞いた市島の村人は 武士の供養のために そばを作りませんでした
もし作ればその家に災難が起きるとされていたようです



ヤビツ峠(秦野市)

このヤビツ峠を越える人は急に空腹になり 歩行困難になるといわれています

三増峠の合戦で 餓死した兵の亡霊がこの峠で 餓鬼となってさまよい 食べ物をあさっているのです
そのため 食べ物をこの峠にさまよう 兵の亡霊に供えてから 峠を越えなければならないと言われていたそうですが・・・



ヤビツ峠の飢餓病

丹沢山ろくの蓑毛というところに お百姓さんの親子が住んでおりました
父親はたいそう信心深く 気のやさしい人でした
が 息子の五郎は気が荒く 父親に似ない道楽者でした

ある日のこと 札掛というところへ 大きな荷物を運ぶことになりました
ちょうど父親は風邪を引き 寝込んでおりましたので 仕方なく五郎が出かけることになりました
父親は ちょっと心配になって
「ヤビツ峠には 合戦で亡くなった怨霊が出るそうじゃ
 なんでも 腹を減らした兵が出てきては旅人を空腹にする飢餓病にして 苦しめるそうじゃ
 そのときは自分の握り飯を半分 後ろへ放り投げろ
 だから弁当は 充分に用意しておけよ」
と いいました

ところが五郎は
「そんな ばかなことがあってたまるもんか ふん」
といって 出かけていきました

大きな荷物を持った五郎は
「ええ〜ぃ くそ! こんな重い荷物を!」
と ぶつぶつ愚痴をこぼしながら 山道を歩きつづけました
そして ヤビツ峠にさしかかったときです

不思議なことに 急に腹が減り始めました
目が回り 腰がふらふらして 立っていることもできません
とうとうその場に倒れてしまった五郎は ふと 父親の言葉を思い出しました

「悪かった 悪かった わしが悪かった」

と 腰の握り飯を 半分後ろへ放り投げました
するとどうでしょう
たちまち空腹が治り 立てるようになったではありませんか
こうして五郎は 無事 荷物を札掛に届けることができたのです

それ以来 あれほどわがままだった五郎も すっかり心を入れ替え 
父親の言うことも よく聞くようになったということです



犬越路(津久井郡・津久井町)

三増峠の合戦も終わって甲斐へ帰っていく武田軍が道に迷ったときです
この時 どこからともなく犬が現れました
この犬に 道案内され 山を越えたことから この名がついたと伝承されています


 

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