信玄公忌
| 平成14年4月12日(金)、管理人は塩山・恵林寺にての信玄公忌に行ってきました。 当日の朝、管理人は、明後日に行なわれる石和・川中島合戦絵巻の戦仕度を済ませ、7時前我が家を後に。 小雨そぼ降る中の出陣ではありましたが、石和でお知り合いになれました皆さまとの御再会を胸に、そして信玄公の命日ということもあって心はすでに甲斐の国・・・ 各駅停車に乗って、塩山駅に到着したのが9時半頃。 駅の外へ出てみると雨もあがっていまして、即タクシーを使って恵林寺へ到着。 黒門を過ぎ、参道を通ってみますと露店の準備をする人、すでに商いをしている人・・・ これで恵林寺は3回目の参拝となりますが、このような雰囲気の恵林寺は初めてです。 しかし、朝早かったこともありますし、天気もどんより曇っていましたので良い雰囲気をだしていました。 じつは、もっと賑やかだったら、ちょっと淋しいなと、逆の発想をしている管理人でした(笑) |
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境内には武将名の幟が |
有名な夢窓国師築庭の庭園 |
天正時代の礎石 |
| 恵林寺 恵林寺は元徳年間、甲斐の牧の庄の領主であった二階堂出羽守貞藤が、夢窓国師に深く帰依して甲斐に招き、所領地の現在地に開基したものと伝わっています。 信玄公が46歳のとき、快川紹喜国師を恵林寺住職に迎えてから、信濃攻略、小田原攻めなどの戦場を駆け巡って帰国すると、その足で快川住職を訪ねて心を癒したそうです。 ここでは 『下部のくちづたえ』 から、恵林寺と仏法僧(ぶっぽうそう)を紹介してみたいと思います。 織田信長が一番恐かったのが武田信玄公でした。 織田信長が武田を滅ぼすときに、恵林寺へ信長の使者が来ました。 それは、信玄公がまだ生きているのか、死んでいるのか調べてみる目的でした。 実際には既に信玄公は亡くなられており、別人を信玄公に見せかけていたのです。 使者は 「まだ、信玄は生きている」 と、信長に報告しました。 |
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| 信長は信玄公を恐れていたので、「生きているうちは攻められぬ」 と、進攻を延期しました。 それから何年か過ぎ、信玄公が亡くなられたのが明らかにされると、諏訪口から甲斐へ攻め入り、とうとう武田の菩提寺である恵林寺まで攻め寄せました。 当時、恵林寺には僧が八百人もいた大きなお寺でしたが、信長は遂に恵林寺に火を放ちました。 たちまち燃え上がったその中で、総門の二階に立てこもっていた快川和尚は 「心頭滅却すれば 火もまた涼し」 と言って、泰然自若として死につきました。 その時、一人の僧が戸を背負って飛び降りました。 織田信長の家来達は、総門の戸板が焼け落ちてきたと思いました。 飛び降りた僧は裏の恵林寺山という扇山へ行きました。 そこには、武田信玄公が昔飼いならしていたクロという鷹が鎖で繋がれて飼われていました。 僧はその後、クロを使って信州の天馬峡にいた有名な仙人と連絡を取り合って、信長を何とかして滅ぼそうと謀略をもめぐらしたともいいます。 仏法僧はクロが生んだ子だとされ、信玄公が可愛がっていた鳥の子であるから、仏法僧が羽根を広げると、武田の家紋である白い武田菱の紋がはっきり見えるのだそうです。
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| 武田不動尊祭典 「信玄さん」の愛称で親しまれている4月12日の武田不動尊祭典は、この地方の春を告げる祭典です。 いつ頃からこのお祭りが開かれるようになったのかは明らかではありませんが、庶民信仰の一つの現れとして江戸時代中頃から例祭が行なわれるようになったとの記録があるそうです。 信玄公の生前の姿を不動明王に模刻したと伝えられる不動明王座像は、天正十年の恵林寺焼き討ちの時、明治三十八年の大火の時にも焼失を免れ、火難除け、火伏せの不動としての信仰があります。 かつては八十年に一度の御開帳と云われていましたが、明治半ば以降、毎年4月12、13日に開扉されるようになったとか。 この不動さまの顔をまともに拝むと、頭上の蓮弁の下に付いている金剛石(実際にはありません)の光で目が潰れると信じられ、正面からこの不動尊のお顔を拝んだ人はいなかったと伝わっていました。
不動明王 では、『裏見寒話』 による、不動明王のお話を紹介しましょう。 信玄公は永禄十三年(元亀元年)六月、思いたって広さ六尺の鏡を鋳造させ、自分の御影を木像に顕(あらわ)し、少しも違わないように作らせました。 この木像に、自らの首の毛を焼いたもので装飾し、皆に尋ねました。 「おお、これはこれは・・・不動尊に少しも異なりませぬ」 と、皆は御返事されました。 信玄公は言いました。 「我は四方の国を押し掠めた。 と言って、剣縛縄を持たせて、不動の形にしました。 おそらく不動の形ならば、敵の者も手足を取ったり、悪戯はしないだろうと考えたのでしょう。 恵林寺に残る武田不動尊には、このような言い伝えが残っています。 |
| 信玄公墓前にて御焼香 恵林寺境内に入り、信玄公のお墓へ・・・ 命日ということもあって、いつもより念入りに合掌し、感慨深く御線香をあげてきました。 雨上がりのぬかるんだ墓前には御線香をあげる人が絶えることなく、次々と御焼香をしていました。 こんなにも郷土や各地から参拝者を集めるとは、偉大なる信玄公の存在を再認識した次第です。 今、こうして写真とかを見ますと、そのときの事を思い出し、改めて感動しました。 戦国の世に生れ、志半ば・・・戦いに敗れることなく永眠なされました信玄公、大袈裟かもしれませんが、目がうるうる、、、 信玄公の残された人間味豊かな多くの史跡・施策は勿論、何よりも統制の取れた戦国最強騎馬軍団、その偉大なる勇姿を、いつまでも心の中に残していきたいです。 |
次々と御焼香される参拝者 |
| その後、甲府へ 恵林寺にて、信玄公忌とは何を行なうのか、ちょっと見たかったので、しばらく境内に留まっておりましたが、甲府では武田神社の例祭が同日行なわれています。 二十四将行列もあるということで、昼ちょっと前に恵林寺を後にしました・・・(心残り) さて、甲府へ行ったらはやり、岩窪にあります信玄公のお墓と、三条夫人のお墓へも行かねばなりません。 武田神社へ行き、一応お参りをし、二十四将行列と御神輿が戻る時間をチェックし、まず三条夫人のお墓がある円光院へ訪れました。
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恵林寺住職・快川和尚の語 |
円光院内・三条夫人のお墓 |
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円光院本堂の左裏には三条夫人の墓所があり、その中の細身で優美な宝篋印搭、これが三条夫人のお墓です。 三条夫人は、後に左大臣に昇進した公卿・三条公頼の二女で、天文五年に迎えられ、晴信の妻となりました。 太郎義信・信親(龍宝)・黄梅院等を生みましたが、元亀元年七月二十八日、戦乱の世にその生涯を閉じました。 管理人は甲府へ来ますと、必ず円光院へ訪れ、その次に信玄公墓所へ・・・というのが、恒例になっています(レディファースト・笑) 今回は、春ということもあって、円光院の躑躅が大変綺麗でした。 すると、やはり三条夫人のお墓参りに訪れたのでしょうか、先ほど武田神社で管理人と同じく、二十四将行列が戻ってくる時間をチェックしていた、関西からやって来た二人の女性とすれ違いました。 彼女達もきっと、武田のファンなのでしょうね。 円光院へは、きっとまた近いうちに訪れたいと思います。 |
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| 信玄公墓所 円光院を後にした管理人は、その足で近くの信玄公墓所へ。 すると、とある男性が信玄公のお墓の前で合掌していました。 ここでもやはり、武田ファンの人に出会うことができました。 さて、この墓所についてのお話をひとつ。 西上の願い空しく、陣中で没した信玄公の遺体は兵に守られ、甲府に帰りました。 一説によれば、もと土屋右衛門尉の屋敷内にあった信玄公の火葬場は、その後荒廃して魔縁塚などと呼ばれて人々から恐れられ、近づく者もいませんでしたが、たまたま安永八年、ときの代官中井清太夫が試みにその場所を掘ったところ、石棺が出土しました。 その石棺の蓋に、「法性院機山信玄大居士 天正元年四月十二日薨」 と刻まれ、中から骨片と灰が出てきたので、謹んで古碑と共に元の処に埋め、幕府に申請して信玄の墓所と定めた、といいます。 |
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| なおその時、石棺と共に埋めたという古碑については、その拓本が武田神社に保存されています。 そう、宝物館の中に展示されていますよね。 銘文には 「法性院大僧正機山信玄公大居士神儀天正元年癸酉四月十二日病死矣 右三年之間隠密為諸方敵国也乙亥年四月十二日於此處有御訪」 とあります。 |
信玄公墓所・八房の梅(左) |
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| また、信玄公墓所の入口左側に 「八房の梅」 の、木があります。 この木は、信玄公と上杉謙信公の戦があった、そんなある日・・・ 信玄公は戦いの最中、喉が非常に渇いたので、従者に水を求めました。 しかし、水の用意をしてこなかった従者は、水の代わりに梅を差し出しました。 信玄公は渇きを癒そうと、従者の差し出した梅を口に入れました。 梅を噛むと、実は八個に割れました。 信玄公は割れたその実をその場に捨てました。 やがて、その実から芽が出て成木し、梅の実を付けるようになりました。 不思議な事に、その梅の木は、ひとつの花が咲いた後、八個の実を結ぶようになりました。 信玄公の遺体を火葬にしたといわれる岩窪の信玄公廟所には、その梅の木が移植され、今でもひとつの花に八個の実を付けるそうです。
さて、これで今年の信玄公命日・信玄公忌に関しての旅は終わりました。 来年同日は、さらに大泉寺へも足を伸ばして行ってみようかなと、思案中です(来年は4月12日が土曜日です〜)
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