御神火祭
ごじんかさい
   

 

 

三浦介、九尾の狐退治へ (きゅうびのきつね)

身の丈3メートル、尾の長さ5メートル、体毛金色、白面から突き出す舌は真っ赤。
人を食い田畑を荒らす。
変幻自在、時には人妻となり、あるいは美しい少女と化す。

那須地方の領民を苦しめる九尾の狐は、遥か3千年前、中国が殷と云われた時代の話に遡ります。

美しいお姫さまとなって王様を惑わし国を滅ぼし、その後天竺(印度)に渡っては華陽夫人という美しい皇后に化けて朝廷を攪乱した九尾の狐。
その後、九尾の狐は遣唐使の船に潜み、日本へ渡ってきました・・・

この怪物は堀河天皇の御代に「玉藻の前」となって天皇を惑わし続けましたが、陰陽博士の阿部泰親の祈祷に敗れて、京から黒雲に乗って那須へ逃げます。
そして、現矢板駅近くの大木を根城にして人々を食いまわっていました。

九尾の狐の詳細はgaraさまが運営します『思いっきり那須』(伝承・九尾の狐)を参考に→クリック!

 

雁が空を鳴き渡り、木々は紅葉、秋の久寿元年(1154)。
三浦半島の中心、三浦一族の本拠地・衣笠城へ急な勅使の下向がありました。
これは夢かと驚き、喜んだ城主の三浦介義明は、急いで髪・身体を洗い、身を清め水干・立烏帽子に威儀を正して勅使に対面しました。

勅使の伝えは

「下野国那須野に白面九尾の妖狐が住み、里人たちを害して非常に困っていると、那須野の城主須藤権守貞信から朝廷に申し出があった。それ故この妖狐を退治して欲しい」

とのことでした。


三浦氏本拠地・衣笠城址

この勅命を受けた三浦介義明は、直ちにこの事を城内の箭執不動尊に奉告、勅命に応える事が出来るようにと祈願を込めました。

箭執不動尊については、こちらを参考に→クリック!

 

箭執不動明王の霊感を受けた義明は、城内の馬場で走狗(犬)を射る稽古をはじめ、さらに森戸の浜でも稽古に励みました。
一方、領内の神社へも九尾の狐退治成就と、民の平穏を願い祈願します。
領内の神社に祈願したという伝承は天長元年(824)創建・横須賀大津にある諏訪神社の総縁記に、その事象が残されています。


『諏訪大明神総縁記』

原夫大日本国相模洲三浦県大津邑諏訪大明神者勧請信州諏訪之神躰奉祟関郷之惣鎮守也
是則文殊菩薩之垂跡而南方命也
(中略)
往昔三浦大介義明蒙勅命而赴于下野国那須野原時祈念
此神明以神通之蕪箭惣射落金毛九尾之悪狐而后除滅万民之大災而悉令護天下安穏也
是審見于古書也


横須賀大津・諏訪神社

 

さて、九尾の狐退治の準備も整い、勇躍那須野に向かった三浦介義明は、同じく勅使を受けた千葉介常胤、上総介広常等と那須城で会合、城主・須藤権守貞信に勧めて那須河原に百間四方の竹矢来を構えさせ、野犬数頭をこの中に放って常胤・広常・貞信達と共に馬を馳せて射る訓練を試みました。

これは、那須野出立前に三浦・森戸浜での訓練を再現したもので、自ら思案した訓練を、妖狐退治の使命を共にする同志と実行したものと思われます。


黒羽町犬追物跡地:案内板


『笠懸』
犬追物と同じく、
三浦一族のお家芸

−油壷・道寸祭りから−

 

そしていよいよ九尾の狐退治が行われます。
しかし、九尾の狐は変幻出没極まりなく、容易にその正体を現しません。
七日七夜、那須の地に逗留した三浦介は

「我等先祖は長く弓箭の名を馳せ、さらに九尾の狐退治の勅命を国多くの諸将から、この三浦介、選ばれたる事誇りに思う。
此度、この九尾の狐退治叶えられねば、先祖代々の名を疵付け、生涯の恥奪となる・・・身を捨て、命を失うことに等しい。
進退是に極まるところである。
九尾の狐退治出来ねば、今より弓を捨て、再び三浦の地・箭執不動明王に帰ること出来ず。
諏訪大明神、八幡大菩薩、三浦十二天神、箭執不動明王、我等を再び三浦の地へ帰し給え・・・」

と、那須の地にて祈念を続けます。

ある日の夜明け前、年の頃二十歳計りなる女性(玉藻の前)が三浦介義明の夢枕に現れたのです。
その娘は、涙を流して三浦介に訴えました。

「この度は我の命を汝に失われんこと恨の中の恨也。明日の命を助けたまへ、子々孫々の守の神と成りて、千世をふるとも忘るべからず」

目覚めた三浦介義明は、我を恨むこと無かれ、と、郎党と共に馬を曳きました。
すると、夜明けの朝日が上る方向に、野を懸け山へ向かう九尾の狐を発見、一族郎党と共に追跡します・・・


鏡が池

しかし、またしても変幻自在の妖狐を、ある池のほとりで見失ってしまいました。

ところが池のほとりに立ち、辺りを見渡すと、池の上に伸びた桜の枝に止まっている蝉が、池の水に狐の姿となって映っていたのです。
この池は、後に『鏡が池』と名付けられ、現在もその清い水を湛えて現存しております。

さて、この蝉の正体が九尾の狐である事を知った三浦介義明は、逃げる蝉を追い掛け、那須の谷まで追い詰めました。

地獄谷の噴煙に再び身を隠した九尾の狐と思われましたが・・・

しばらくしたその時、三浦介義明が目を開いてみると之如何に、千葉介常胤・上総介広常・須藤権守貞信、其々騎乗馬の尾の辺りに、珠のような怪物を認めました。
さて、これこそ九尾の狐の御目通り、三浦介義明が弓に矢をつがえて放てば手応え有り!

その珠は忽然と消え、貞信の馬の首に当たり、それを貞信は太刀で打ち払いました。
再び、その珠は馬の頭上に現れましたが、今度は貞信が放った鏑矢で射止めると、怪しき珠は地上に落ちて割れ、中から九尾の狐が現れ火焔を吐いて三浦介義明をめがけて飛びかかってきました。

急ぎ矢を執り直した三浦介義明は、諏訪大明神から授かった矢をつがえてグサリと九尾の狐に射当てました。
これに続き、広常・常胤の矢もまた九尾の狐に命中。

九尾の狐は其々の矢に傷付き、以前にもまして猛り狂いました。
三浦介義明は、その姿を見て再度遥か故郷の諏訪大明神、箭執不動明王に向かって念じながら、

「草も木も 我すめらぎの国なれば いづれかきつの 栖家なるべき」

と詠めば、九尾の狐は不思議にもドッと倒れました。
三浦介義明はすかさず短刀の鞘を払い、その胸元を刺すと九尾の狐も流石に息絶え、諸将はもちろん、里人も合わせてその喜びは那須全山に響きわたったのです。

この時の三浦介義明の短刀は国光の作で、これ以降これを三浦国光と呼ぶようになりました。

変幻自在の力を持って、中国、印度、日本と荒らしまわった九尾の狐も、日本の神と人、一体の力には勝つ事が出来ず、ついに那須に倒れました・・・

九尾の狐は屍となりましたが、その死体を片付けようと駆け寄った20数名の勢子の命を奪うと同時に、たちまち大きな毒石と変わってしまいました。

三浦介を始めとする諸将は、九尾の狐を亡骸とした証拠とすべき毛皮を手にすることは出来ませんでしたが、その毒石の周りに柵を作り、人の近づくのを禁じて那須の地を去ったのです。

後に、この石は殺生石と呼ばれ、この石に近づくと人や野獣は勿論、空飛ぶ鳥や、近くの小川の魚までが命を失う、恐ろしい石と化しました。


殺生石

一方、三浦介義明は九尾の狐退治の即日、三浦藤平実国に上洛させて九尾の狐退治成功を奉上、自身は直ちに衣笠城に帰城して領内の諸神社に使いを出して奉告献上します。

三浦介義明は一門・子弟を衣笠城に召し集めて、九尾の狐退治の顛末を詳細に物語り、犬追物の作法をも定めて、永く三浦家の吉例行事に加えました。

上洛していた三浦藤平実国が衣笠へ帰城という日、義明の子息杉本太郎義宗・荒次郎義澄・太田和三郎義久・多々良四郎義春及び舎弟津久井次郎義行・葦名三郎爲清・岡崎四郎義実等に、犬追物を試演させながら義明は詳細に批評し、同時に小宴を張ります。

宴もたけなわの頃、三浦藤平実国は上洛の使命を全うして帰城し、

「院の御感にあずかり、三浦介義明を従四位とし、大介の名を賜りました」

との報告を行いました。
この御言葉を聞いた一同列席の面々は皆、感激して三浦家空前の名誉であると感涙に咽んだということです。

 


三浦一党出陣武者行列から

新編会津風土記・巻之二十八、『天満村』にはこんな記述があります。


横須賀市役所時計台
三浦大介義明像

 

【十二天神社】

境内東西十二間、南北三十間、免除地
村の戌亥の方一町五十間余にあり、
此社は天神地神十二代の神を祭れり、相伝て、久寿二年三浦大介義明下野国那須の狐退治の時此神に祈誓し、
其功なりしかば報賽のために此社を建立せりと云。

 

三浦大介義明は九尾の狐退治後に、会津天満村に十二天神社を建立したと伝わっています・・・

 

御神火祭参列へ続く・・・

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