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大善寺本尊薬師如来像ご開帳

 

東京方面から中央高速、または中央本線で笹子トンネルを抜けると、一面に広がる展望・・・

武田氏終焉の地・大和村、そして一面に広がる葡萄畑の勝沼。

管理人としては山梨の中でも特に好きな地です。

平成15年10月1日〜10日、勝沼・柏尾山大善寺で薬師如来像のご開帳がありました。

思えば、初めて石和川中島合戦絵巻に出陣した年に大善寺へ訪れました。

2年前、『甲州ぶどう発祥の地』 『勝頼公主従投宿の地』 のページで紹介しておりますが、今回は加えて薬師如来像ご開帳について紹介してみようと思います。

なお、赤字で示したタイトルには、当サイトのページにルンクされておりますので、ご参考に。

 

以前、このサイトの掲示板にて御本尊の薬師如来像について、こんなレスがありました。

『この薬師如来像の右手にブドウを持っていらしたというもの。
ただ、現在はブドウをもっていらっしゃらないと大善寺で伺ったような・・・』

黄梅さまより

このレスがずーっと頭の中に残り、これは絶対に自分の目で確かめなければ、と、常々思っていました。

平成15年10月4日、管理人は一路、勝沼へ・・・

また、このご開帳では併せて大善寺に残されている寺宝も拝見できました。

主なものを紹介しておきますが、記憶に任せておりますので・・・(苦笑)

●理慶尼記
これについては説明無用ですね・笑

●武田軍出陣時の口伝
武田軍が出陣の際に行う鐘、法螺、太鼓の鳴らし方が詳細に書いてあります。
とても面白い巻物でした。

●大善寺文書
・平清盛下文(安元三年)
・武田信春寄進状(文和四年・貞治四年)
・武田信武施行状(延文二年)
・北條宗宣、北條師時連名・関東下知状寫(延慶三年)
・北條貞顕・関東下知状(正中三年)
・栗原信重代官寄進状(文明五年)
・柏尾山造営勧進状案(天文二十四年)
・武田晴信判状(永禄三年)
・武田家奉加目録
・織田信長禁制(天正十年)
なお、『新編甲州古文書』が参考になりますので、御覧になって見てください。

●絵馬2点
・川中島合戦の信玄と謙信が描かれていました、1777年に奉納された絵馬だそうです。
・馬画像のもので、奉納文には「奉納一疋 三枝・・・(以後、解読不能)」とあります。
寛永拾年のもの。

●鰐口
徳治二年銘(1302)、何でも鎌倉期の鰐口は非常に珍しいそうです。

●不動明王木像、袈裟
伝えによると、信玄公が寄進したとか・・・不動明王像は奈良時代のものと書かれていました。

●水晶念珠、陶器数点等
・法性院 とののもちたまへる 念珠をゆつり きこえける かしこさを謝す
・かすかすに 念の珠をくりかへし むかしを今に なほあふかなむ


大善寺楼門


薬師本堂の見事な藁葺屋根

 

大善寺と小山田氏

本尊を拝見し、自分なりに得たところをお話する前に、小山田氏と大善寺について是非とも紹介したいものがあります。

『柏尾山造営勧進状案』 の中から抜粋した文章を自己流の訳によりますが、記述しておきます。

天文九年(1540)八月十一日、一昼夜大風吹き古木・大木損なう、此れに就き本堂北の方の葺板山中に吹き上げ、世間人民、心力を誠に失う。

堂舎仏閣、宮殿其の他日光菩薩・月光菩薩・十二神像等、雨露に没し被り大破するところに及ぶ。(中略)

国主晴信の命、天文十九年(1550)三月中旬、小山田出羽守信有、保性大夫・大蔵大夫両座五百人余人の数を引率し、当寺越され終わる。

同惣領鶴千代丸(信茂)・信有息子藤乙丸同年十二歳、大夫に於いて三日の延年を成す。

然れば屋形(信玄)御参り、国中の諸侍・貴賎上下・道俗男女群集し、互いに我が足の踏む処を知らず。

去れども其の後、漸く葺き終え畢んぬ。


これは、天文九年八月十一日の台風により、大善寺の伽藍が破損、その屋根葺き替えの勧進奉行を小山田信有が務めたことを現していると思います。

この台風のことは、妙法寺記にも記載されていました。また、妙法寺記には天文二十一年(1552)小山田出羽守殿死去、同年二十五日に盛大な葬儀が行われている事も記載されています。

また、天文十九年の『岩殿山円通寺大般若経裏書』という中に、小山田信有病気平癒の祈願の意を込めて、書き入れた物が現存しています。

大善寺修復が、最後の大仕事だったのでしょうか、今現在の大善寺を参拝出来るのも、この小山田出羽守信有のおかげなのですね・・・

その後の文書にも信有と名が記載されているものがあるのですが、天文二十一年以降は小山田弥三郎信有とあり、後の小山田左兵衛尉信茂の初名であるとされています。


小山田氏になりきった管理人
写真・相模守太郎さまより

さて、『柏尾山造営勧進状案』 では良く解らない、と感じ、大月市史を調べてみました。この大月市史から文章をお借り致しまして、詳しくお話してみたいと思います。

勧進奉行を務めた小山田信有は、延年の舞に室生・大蔵両座の猿楽師一行を招きました。

当日は小山田氏の惣領鶴千代丸・藤乙丸をはじめ、500余名に及ぶ大家臣団(全家臣の過半数)の参詣があり、かくて三日間にわたる延年の興行となりました。

その盛大豪華さはまさに言語に絶するものがあったようです。

とくにこの興行に際しては、国主信玄公も参詣して臨席し、国中の諸侍はいうに及ばず、領国の貴賎上下を問わず、善男善女の参拝者・拝観者は後を絶たず、群集で全山は足の踏み場もないほど混雑を極めたそうです。

かくて国主以下、国人・土豪・地侍から農工商の一般庶民にいたるまでを総動員し、中世甲斐の歴史を飾る最大の勧進興行となりました。

これによって、大善寺大屋根の葺き替えも難なく無事に終える事が出来ました。

この大役を果した小山田出羽守信有の実力と財力は、武田家の中でも充分注目されるに至った事は言うまでもありません。

ただ、この後、郡内領民の上にはね返ってきた負担の重みは、妙法寺記にも記されています。

特に天文十八年の妙法寺記にはこのような記述があります。

この年霜月、武田殿・小山田殿談合され候て、地下にことごとく過料銭を御懸け候。
殊更に寺々・禰宜(ねぎ・宮司または神主に次ぐ神職)、如何様なる者も押し並べて御懸け候。
去るほどに、地下衆歎く事限り無し。

この年代あたりは信玄公が信虎を駿河へ追放して自立、そして信濃侵攻に休まる間もなし、さらに凶作や飢饉続きで農民の疲労は甚だしい時期でもありました。

このような時代背景の折、信玄公に伴った郡内の領主・小山田信有の出陣もあって、兵糧米や軍資金、陣夫の徴発、さらに加えて臨時の軍事費が掛けられたのです。

僧侶や神官にまで過料銭が掛けられ、全て一様に徴収される事になりました。

また、後に信玄公息女(黄梅院殿)が相模・北條家へ輿入れすることになりましたが、息女を相模へ送る際には、小山田信茂がその使者という大役を果しています。

輿入れ一行の御供は騎馬3千騎、人数は1万だと妙法寺記にあります。

大善寺修復、軍資金の為の過料銭、息女輿入れの使者、以上の大役を果し、そして平将門の伝説で紹介した通り、武田騎馬軍団の主力を担う馬飼い技術を育んだ小山田氏は、武田氏の有力な家臣だったと思われます。

 

本尊薬師如来像、ご開帳訪問

大善寺の薬師如来について、改めてここにお伝えしておきましょう。

養老二年(718)僧行基が甲斐国を訪れたとき、勝沼の柏尾に至り、日川の渓谷の大石の上で修行をしたところ、満願の日、夢の中に右手に葡萄を持った薬師如来が現れたといわれます。

行基はその夢を喜び、早速夢の中に現れたお姿と同じ薬師如来像を刻んで安置したのが、今日の柏尾山大善寺です。

以来、行基は薬園を作って民衆を救い、法薬の葡萄の作り方を村人に教えたので、この地に葡萄が栽培されるようになり、これが甲州葡萄のはじまりだと伝えられています。

大善寺伝説は、仏教渡来と共に大陸からわが国にもたらされた葡萄が、薬師信仰と結びついてこの地に伝えられた事を指すものとして理解されます。


10月4日、秋の葡萄狩りシーズンの為か、勝沼周辺にはいつになく観光客やハイカーの姿が見受けられました。

大善寺へ到着した時にも、以前は平日に訪問したせいか、ひとりとして参拝者の姿を見掛けませんでしたが、この日は大勢の参拝者がおりました。

このお寺では、民宿として宿泊可能でもあります。

さて、受付を済ませ薬師堂へ・・・

ご住職さんが経をあげ、護摩を焚いておりましたが、その脇から十二神将、日光・月光菩薩像を拝見。

そして、本堂の中央部にある厨子の中に、5年に一度ご開帳されます薬師如来像の穏やかなお姿を拝見することが出来ました。


厨子


薬師如来像(絵葉書より)

そのお姿は、本当に優しい顔でしたが、厨子の中におられますせいか、実に堂々として我々を圧するような感じがしました。

木像の地肌は黒塗のようで、何ともいえない古き歴史を感じさせてくれます。

左に紹介している薬師如来像は、当寺で販売していた絵葉書を画像ソフトで多少細工しております。

絵葉書を見ると座と顔は金箔で塗られているような感じでしたが、自分は殆ど気が付きませんでした(苦笑)

注目されるのは、ご本尊の右手です。

確かに、古くは右手に葡萄を持っていたそうですが、その様子はこの絵葉書からも、そしてこの目で確認して来ましたが、葡萄を持ってはいません。

護摩焚きの合間に、ご住職さんに尋ねてみました。

ご住職さんのお話によると、昔は確かに葡萄を持っていたそうです。

ただ、多くの火災・戦災によって本堂が焼けたり、台風で屋根が一部吹き飛ばされたり。

そう、信玄公時代、鎌倉時代、幕末辺りにもその被害にあったのです。

この薬師如来像は、かつて右手を胸の辺りに、手のひらを身体に向けた形で葡萄を持っていたそうです。勿論、現在のご住職さんも拝見した事は無いでしょうが、代々語り継がれてきたのでしょう。

明治時代になり、大善寺の薬師三尊像が国の重要文化財になる時、右手は途中から切断され、他にも見られます薬師如来、釈迦如来のように右手の向きを直されたとか・・・

えーっ、こんなことってあるの?

ちょっと信じられなかったのですが、再度如来像を拝見しなおしてみると・・・どうも右手の手のひらが妙に不自然でした。

左手の指には、ちゃんと関節辺りの筋が彫られているのに、右手の指はのっぺりとして、指の付け根に筋が見られる程度。

心なしか、そのお話を伺ってから、さらによ〜く見ると、爪のような跡が右手指先の表にあったような・・・

やはり間違いない!

如来像の右手は、現在と昔では裏表が逆だったのだ、きっと像が彫られた当時は葡萄を持っていたに違いない、と、自分なりにそのお話を理解しました。

指の付け根に見られる筋は、手のひらに見せるように、後に彫ったもののようでした。

さて、薬師堂では勝頼や勝頼夫人(北條院殿)が、この薬師如来像の前で祈りを捧げたと思うと、胸が熱くなりました。

ご開帳参拝を終え、庭園を見ながらお茶と葡萄を頂くことが出来ました。

とっても甘くて美味しい葡萄です。旬の美ですね、やっぱり。

美味しい葡萄が武田氏滅亡という、その悲劇を忘れさせてくれたような気がします。

では、最後に大善寺で頂いたお言葉を紹介致します。

『朝、希望に起き、昼、努力に生き、夜、感謝に眠る』

『満足は自分のせい、不満足は人のせいにするな、不満足は自分の未熟、満足は人様のお陰と感謝せよ』

大善寺 住職

ご住職さま、どうもありがとうございました。

参考
大善寺伝説
岩殿山の伝説
平将門と小菅村
志賀夫人のお墓

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