大善寺伝説
まずは、黄梅さまに投稿させて戴きました掲示板より抜粋させて頂きます。
甲州ブドウの発祥は二つの伝説に彩られております。
まず、勝沼町大善寺に伝わるものです。
718年行基が霊夢にあらわれた薬師のお姿を刻んで祀ったのが大善寺だと伝えられております。
この薬師如来像の右手にブドウを持っていらしたというもの。
ただ、現在はブドウをもっていらっしゃらないと大善寺で伺ったような・・・
薬として伝えられ、薬園で栽培されていたのですね。
もう一つは、1186年、やはり勝沼町の雨宮勘解由と言う方が野生のブドウの中から変わったブドウを発見し、苦心して改良の結果できたのが、甲州種ブドウだというものです。また戦国時代、武田信玄にブドウが献上され、大変喜ばれたというお話も伝えられていますとか。
黄梅さま掲示板より
黄梅さま、どうもありがとうございました。
たまたま、近くの石和町へ出かける機会がありました。
それは、石和 ・ 桃の花祭りという中で 「川中島合戦絵巻」 が行われ、当管理人も雑兵姿で参加させて頂きました。
その翌日に、この黄梅さまのレスがずっと頭にあったので、理慶尼の墓所とかがある、また、勝頼公投宿の地ということもあって、大善寺を訪ねてみました。まず、甲州葡萄の伝説を黄梅さまのレスに従って記載させていただきます。
(1)大善寺伝説
養老二年(718)行基という偉いお坊さんが西のほうからはるばる勝沼へやってきました。
お坊さんが日川の岸にそびえ立つ、大きな岩の上に座って何日も何日もお祈りを続けていて、二十一日目がきました。
すると、この日霊夢のお告げがあって、岩の上に如来さまが現れました。
薬師如来は金色に輝いて、右手に葡萄を持ち、左手には宝珠を持って、普通の薬師如来と違ったお姿をしていました。
行基菩薩はさっそく霊感にしたがってこの地に寺を建て、薬師如来を安置したのが、大善寺であるということです。
以来、行基は薬園を作って民衆を救い、法薬の葡萄の作り方を村人に教えたので、この地に葡萄が栽培されるようになり、これが甲州葡萄の始まりと伝えられています。
大善寺伝説は、仏教渡来と共に大陸からわが国にもたらされた葡萄が、薬師信仰と結びついて、この地に伝えられたとを指すものとして理解されています。
(2)雨宮勘解由伝説
勝沼町上岩崎の 「城の平」 に、年に一度神さまの不思議な力を授けてくれるという石尊祭がありました。
この近くに住んでいた雨宮勘解由は、例年のようにお祭りに行く途中、山道で偶然に珍しい蔓性の植物をみつけました。
持ち帰って自分の畑で、子供のように大事に育てていたところ、五年目に三十房余りの葡萄を取ることができました。
これが、甲州葡萄のはじめと言われ、勘解由は村の人たちに苗を分けてやったり、これを広めることに努めました。
村の人たちはそれ以来、雨宮勘解由を甲州葡萄の始祖として崇めたそうです。
大善寺について
養老二年(718)、行基が開創した関東屈指の古刹です。
聖武帝より柏尾山鎮護国家大善寺の寺号を賜わり、皇室の祈願所として、また、その後源頼朝以降代々の将軍及び武田家の祈願所となりました。
文永七年に本堂と小伽藍を全焼、弘安二年(1279)に北条貞時が八年がかりで再建したそうです。
この本堂(薬師堂)は鎌倉時代の造りで、国宝にもなっています。天文九年、甲斐の国は大変大きな台風にみまわれました。
妙法寺記にも、この台風のありさまが記述されています。
その台風により、本堂屋根の2/3が吹き飛んでしまいました。
その後、再建されぬままでしたが、武田信玄公により、同十九年に再建されました。大善寺山門
本堂内の諸尊像について
本堂須彌壇中央には厨子があります。
これは、南北朝時代の文和四年(1355)の製作とありますが、文明五年(1473)の再興のようです。特に注目すべきは、棟に鯱(しゃち)があり、このような厨子は、他に例を見ないそうです。
この厨子も、国宝になっています。
そして、この厨子の中には国の重要文化財にもなっている、本尊薬師瑠璃光如来尊像がありますが、ご開帳は平成十五年となっています。
厨子の前に、葡萄を持った小さな如来像がありました!!
須彌壇右手には日光菩薩像を中心に十二神将の六体、一番右に土屋相模守政直寄進の文殊菩薩立像があります。
左手には月光菩薩像を中心に十二神将の六体、一番左に佐竹秋田少将寄進の毘沙門天像です。
十二神将の頭の上には、それぞれ干支を形どったものがちょこんと乗っています。
そして、いくつかの十二神将の中に、目の輝いたものがありました。これは、永禄五年に武田信玄公が水晶を使って入れ替えたものと、住職さまはおっしゃっておりました。
写真撮影は不可なもので、みなさんにお伝え出来ませんが、一度是非、この十二神将は見る価値有り!!
大善寺に伝わる行事
藤切会式 (五月八日)
山の神の憑依する霊木に藤の根をもって作った大蛇をとりつけ、大勢の法印による密教修法の後、剣でこれを切り落とすものだそうです。
鳥居焼 (十月第一日曜日)
柏尾山の西、鳥居平と呼ばれる斜面に薪で長さ150間、幅100間の鳥居形を創り、これを燃やす壮大なお祭りだそうで、さぞかし綺麗でしょう!
大善寺に残されている寺宝で注目されるもの
理慶尼の記二巻
理慶尼、自作の薬師像一体と団扇一本
武田晴信寺領文書 (花押有り)
武田晴信奉納目録 (晴信・信繁・信廉・信是の花押有り)
以上甲斐国史より
本堂裏の山中から出土される五輪塔
柏尾山を中心として、祖霊の宿るところであったと推測されます。
まず、理慶尼のことに触れなければなりません。
桂樹庵理慶尼は、勝沼信友の娘で名は 「松葉」 と、伝えられています。
父、信友は天文四年(1535)北条氏綱との戦いに敗れ、戦死しました。
信友の戦死後は嫡男の信元が勝沼氏の名跡を継嗣、武田氏の有力な親族衆として、軍事力の一端を担っていたようです。
しかし永禄三年(1560)に、理慶尼の兄・信元は藤田右衛門佐康邦 (北条氏邦を養子として迎えた武州花園城主) と内通の事が発覚され、勝沼氏は信玄公に成敗されその勢力は解体されました。
信元の弟、信厚は相模と津久井の国境、上野原の加藤氏の名跡を継いでいたらしく、しかしその後の形跡は不明。
そして 「松葉」 は岩崎郷の雨宮某から離縁され、従者四人を連れ、大善寺の慶紹をたよって尼となり庵を結び住し、慶長十六年(1611)に没したといわれます。
甲斐国志によりますと、尼となる前に妊娠、一子を産んだそうですが男子か女子かは不詳、末裔は享保年中亡くなり、その後途絶えたとあります。
戦国の世の、とても不幸な一族の一人が 「理慶尼」 なのです。
天正十年(1582)三月三日。
自ら新府城に火を放ち、小山田氏を頼って岩殿城へ向った武田勝頼とその夫人、そしてこれに従う少数の武士達は、勝沼に至りました。
そのとき理慶尼は、彷徨する勝頼一行を大善寺にあります、自らの庵へ一夜投宿させました。そして、後に、その最後のありさまを情愛を込めてまとめた 「理慶尼記」 を書き上げました。
今でも大善寺に、晩年の尼の画像、墓所と共に伝え残されています。
「理慶尼記」 についてですが、この記は歴史的価値が少ない、と言われていることが多いようです。
しかし、理慶尼の兄が信玄公に成敗され、信玄公の息子、勝頼公を宿泊させた思いはいかがなものだったでしょう。
わたくしは、この女性らしい、情愛のこもった 「理慶尼記」 が大好きです。
この記を理慶尼は、どんな思いで綴られたのでしょう ・ ・ ・では、「理慶尼記」に添ってお話したいと思います
この日も暮れ方になりければ、柏尾と申すところゑ、着かせたもふ。
御台所、仰せけるやうは、この寺の御ほんぞんは、やくしによらい(薬師如来)と承る。
こんや(今夜)これにつや(通夜)し、のちの世を、祈らばやとおもふなり。「西をいで東へゆきて後の世の やとかしわをと たのむ御ほとけ」
〜 北条(勝頼)夫人 〜
「理慶尼記」 より
この文は勝頼夫人が柏尾山大善寺を訪れ、その本尊が薬師如来と聞き、来世を祈ったありさまを理慶尼が綴ったものでしょう。
通夜して祈る夫人 ・ ・ ・
勝頼夫人は大善寺へ来る前に、武田八幡神社に願文を捧げました。
これは、北条氏の娘としてではなく、心から武田の隆盛と夫、勝頼の戦勝を祈願したものです。
この願文については省略いたしますが、「お松さま」のページを参考にされるとよいでしょう。
ややありて、勝頼たれかあるとのたまへども、とみには御へんじ申すものなし。
かさねていかにとのたまへば、土屋なにそうろうと申す。
たれかれは(誰彼)はとたづねさせたまへば、たれはいつのころより見ゑず、
これはなんどき(何時)より見えずと申しければ、いつれも御心ぼそくやおほしめす。「理慶尼記」 より
武田方では、形勢不利とみて 「織田・徳川」 へ寝返る者が続出していました。
この文はそのようすを綴ったものではないでしょうか。
最後まで側にいて、主君と共にした土屋惣蔵?の名があるように見受けられます。
勝頼一行はさぞや心細く思っていたことでしょう。
こは、いかなるおふせぞや、たとへは人ゆるすしこしくるまにて、
ふるさとさかみゑ、おくるとも、かゑらん事、おもひもよらずや、 (中略)
おもひ染めたるむらさきの、くもの上までかわらじと、ちきりをむすぶたまのおの、
あらんかぎりはもとよりも、たゑてののちもはかれとやと、「理慶尼記」 より
この節が、一番わたくしの好きな節なのです ・ ・ ・
この節は、勝頼が夫人を故郷である相模へ、と勧めた後の文です。
雲の上まで変わらずと、契りを結ぶ玉の緒の ・ ・ ・
御みつから(自ら)御まもりかたな(守り刀)おぬかせたまいて、
御くちにふくませ(口に含ませ)たまいて、うつむきにふし(伏し)たもふ
勝頼此よし御らんじて、いそきたちより御かいしゃく(介錯)おたてまつり、
御しがいに(死骸に)いだきつき、しばしはものおものたまはす。「理慶尼記」 より
この文は勝頼夫人の最期でしょう ・ ・ ・
自ら喉に懐剣を含み、うつ向きになって伏した夫人の介錯をした勝頼。
その夫人の遺体に抱きついている勝頼の姿を想像すると、胸打たれます。では、最後に 「理慶尼記」 の後半一部を紹介します。
たけたの御一もん、おち人とならせたまゑてきたり、
一夜の御やどとおふせければ、たてまつりしに、
其のまゝ世に出させたまわす、ついにはかなくならせたまゑは、
御いたわし事かぎりなし、いとせめて御なばかりおも、とゝめまいらせ、
くさばの露のきゑぬまの、わすれかたみにも、
みたてまつらばやと、おもひてかくしるしおきまいらせけるとかや、
さきのめうかう歌よみて、たてまつりしものゝあまなり、「甲州柏尾山の りけひびくにけいしゆあん これおあつむ」
「理慶尼記」 より
大善寺薬師堂
理慶尼のお墓
「理慶尼記」については、先にも申しましたが
「江戸時代中期に成立した一つの歴史小説」 ということが言われています。
たしかに、記には矛盾する記載もありますが、そんなことを言ってしまっては夢も無くなるようで ・ ・ ・
歴史を探る面白さが、ただ単に史実を実証するだけの事になって良いのでしょうか?
わたくしがこのHPでお伝えしたく思いますのは、この 「理慶尼記」 のみならず、伝承を大切にする気持ちを、みなさんが持っていて欲しいことなのです。
あ、偉そうに、、、申し訳ない ・ ・ ・
なお、理慶尼の詠んだ歌を知りたいかた、興味のある方はメールにてお伝えいたします。
管理人は、歌の心がわからないもので、説明できませんが ・ ・ ・