[PR]生年月日で2010年占い鑑定:初回無料!貴女の運命運勢を占う

 

甲斐国出陣の巻

 

平成十八年四月十一日

相模国にて執務にあたっていた三浦介星友は、夕刻 「甲斐路百拾五号」 にて甲斐国へと向かった・・・
三浦介として相模国平定の任務を任されていた、その矢先である。
武田軍からの書状によると、何やら甲斐国において不穏な動きが見え隠れしているとの事だ。

「いざ古府中へ!」
曇天・小雨降る中も何のその、御屋形さまへの忠誠を果たさねばならない。
一路甲斐国へ早馬を発し、古府中へと向かったのである。

女武者・典廐信繁公側近の世禰矢殿は既に古府中で待機している。
(御屋形さまの身に、何もなければ良いが・・・)
 「甲斐路百拾五号」 に乗り、麦酒を抜いて動揺を紛らわしていたところ、石野真琴殿から電子矢文が入った。

石和川中島において、いよいよ決戦が始まるらしい・・・
「むっ、信州川中島ではなく、石和川中島にまで敵は侵略してきたのか?」

合戦前の打ち合せを簡単に行ったが、何しろ甲斐は山国である。
時々、電子書状が途切れて難儀した・・・そうこうしているうちに、無事に古府中へ到着。
石野殿の次は世禰矢殿と出陣の打ち合せを行うこととした。

その内容は、明日にでも躑躅ヶ崎館から二十四将が勢揃いして騎馬行列を行い、武田武士としての威厳を披露せしめ、古府中に住む里人へ戦いに対する意識を高めようという目的である。

しかし、敵がどこに潜んでいるかわからない・・・
よって、明日の二十四将騎馬行列に関しては皆、影武者にて執り行うこととし、敵の目を欺くという計画である。

 

平成十八年四月十二日

昨日から降り続いていた雨もあがり、曇空に変わっていた早朝、躑躅ヶ崎館にある姫の井戸から湧き出る清水で身を清める。
気持ちが引き締まる・・・いよいよ出陣だ!

敵を欺く為に、全員集合した時点で其々影武者着用の甲冑を御屋形さまから拝領する。
三浦介星友は山県三郎右兵衛尉昌景の影武者になる事を告げられた。

そう言えば前回の川中島合戦において、我々は山県双子姫右兵衛尉みくりん御大将を主として出陣したのである。
御屋形さまの配慮が伺えた。

必ずや、山県三郎右兵衛尉昌景殿として大役を果たそう・・・心に誓う三浦介星友であった。

 


「姫の井戸」
信玄公御息女誕生の折
この井戸水を産湯に使用したことから
その名が付けられたと云う

躑躅ヶ崎館にて出陣祈願を終え、三浦介星友の前には小幡山城守虎盛殿、後ろには小山田左兵衛尉信茂殿を陣形とする軍団の出陣が始まった。

一直線に伸びる武田通りを行くと、胸の鼓動を覚えた。

空を見上げると、晴天の暑い日差しが我々を見送ってくれている。
遠方の武蔵国・梵天丸殿、相模国・鈴白殿の魔力が、天をも従軍させてくれたと信じたい。
馬上から見ると、その沿道には稚児衆や小姓達も出陣を祝い、武田菱の旗を振っているではないか!

「おっしゃ、ここで気合を入れねば山県三郎右兵衛尉昌景の名に恥じると云うもの・・・」

前を行く小幡山城守虎盛殿と後を行く小山田左兵衛尉信茂殿と呼応、抜刀しながら鬨の声を数回に渡って挙げたのである。

その姿は、敵にしてみれば影武者とは思ってもいなかったであろう。
味方である稚児・小姓衆をも欺いたのである。
敵の目を欺くに一応の成功を見せたが、女武者・世禰矢殿には呆れられた・・・(苦笑)

武田通りを通過、古府中北口にて最初の休憩が与えられた。
そこで一服与えられたのは各々緑茶であったが・・・拙者は麦酒を所望した。
馬上で飲む麦酒は格別の美味しさであった・・・

がっ!! 小山田殿がここで小用を催したようである。
とっさの判断によって七・十一の陣屋へ直行し、難儀は逃れたようである。

ここで二十四将の一人でも欠けると、敵にとっては武田軍の統制に迷いが出ていると思われる。
疾きこと風の如く、小山田殿は馬上に戻ったので安堵した。

いよいよ古府中の繁華街へと向かう。

御屋形さまの像を脇に見て、古府中駅舎の前をゆっくり曲がりながら前後の陣形を望む事が出来る。
こ、これぞ戦国最強とうたわれる武田騎馬軍団!!

いくら影武者と云えども、その隊の一員になれたことは誠に光栄至極である・・・

ここからは威厳を持って行列しなければならない。
何時何処で敵の目が我々を監視しているのか解らないのである。

だが、そんな緊張も長く続けば精神的に参ってしまう・・・軍団は遊亀公園にてひとまず昼食、兵糧を貪った。

そろそろ舞鶴城公園まで行かねばならない刻限に近づいた・・・

遊亀公園にて里人の温かさに触れ、三浦介星友は大満足であった。
4日後に控えた決戦においては、万事とどこおりなく準備が進められている。

周囲のざわめきをよそに、一人 石和川中島合戦においての戦略を練る三浦介星友であった。

本陣を死守するのか、はたまた上杉軍本陣を目指すのか・・・

腰を下ろす事もせず、多々思案する三浦介星友の姿がそこに映っていたのである。

我々は再び行軍を開始した。目指すは舞鶴城公園 〜 躑躅ヶ崎館

日差しが照り、甲冑の下は汗ばむ事しばし・・・

だが要所要所でその都度、古府中の行列奉行から差し入れの飲み物を頂いた。
誠に感謝の極みである。
但し麦酒は小用に対して非常に良くない為、遠慮した・・・小山田殿の二の舞にはなるまいと思ったからである(す、すまぬ小山田殿)

この文は誇張されております(汗)→

しばらく行軍していると妙な気配を感じる。
「さては、曲者か!」

撮影機を手に、武田軍の全容を残そうという曲者が数名いたのである。

無論、そうはさせまいと山県三郎右兵衛尉昌景・影武者は太刀を抜いた。
す、すると曲者は抜刀した姿を見て驚愕したのか、慌てふためき、その場を逃げるように去っていったのである・・・

やがて舞鶴城公園に到着、再び一路躑躅ヶ崎館を目指して武田通りを行く騎馬軍団。

今朝ほどの稚児・小姓等は既にもう居なかったが、里人の御家族、他国からの使者が大勢現れていた。

緩やかな上り坂を前に見ると、躑躅ヶ崎館が徐々に近く見えて来るようになる。
館前には大勢の人々が旗を片手に待機してくれている。
いよいよ最後の行軍だ、敵に対して威厳を見せなければならない。

背筋を伸ばし、口元を引き締めた。
もしかしたら、この拙者の姿を見て、緊張の極みかと思った者がいたかも知れぬ。
それはそれで良いが、他の武将達は如何なる体を表現していたのだろうか・・・

その前を行くと、堀に残る桜の花が目に付いた。

その時、三浦介星友の脳裏をよぎったのは・・・

かつて浪人者だった頃の事だった。

御屋形さまへ奉公するという大それた目的もなかったが、いざという時の為に武芸を嗜むことしかり、痛飲する為にも度々盛場へ来訪していた。

とある日、武芸の稽古をして手指の筋を断裂してしまった。
一月の歳月が経ち、添木を外したその日・・・

石礫の投石稽古を、添木が取れた嬉しさもあり、痛飲後に行ってしまうのである。
その際、不覚にも転倒し、左足骨折という重症に陥った。

骨折した足もようやく歩けるまでに復活したが、未だ全快とはいかぬ日々であった。
その時、御屋形さまが傷付いた兵への慰労を兼ね、進んで湯治を奨励したという下部の湯に行くことにした。

下部の湯に浸り、何やら生き返ったような気がした。
素朴な里人の温かさに触れ、温泉の湯を身に染みて感じとることが出来たのだった。

下部の湯から帰路に見た桃の花の、何と美しかった事か・・・

こんなにも歴史と自然の豊富な国があったのか、そして、その中で精一杯生きている里人が存在しているのか、そう思うと、今まで浪人していた拙者に自己嫌悪の念が走った。
このままでは一生浪人者になってしまう、拙者は一念発起した。

躑躅ヶ崎の堀に咲く桜花を見て、当時の思いが鮮やかによみがえった。
今の拙者がいるのも、この甲斐国そして御屋形さまのお陰なのである・・・

館の近くの陣屋にて甲冑を脱ぎ、その夜は古府中の小作で放蕩を食し、駅舎近くの陣屋・内藤(サンパークH内藤)にて心地よい眠りについた。

本日の騎馬行列に関しては、一応の成功を感じる事が出来たのである。

後は決戦の時を待つのみ・・・

 

 

平成十八年四月十三日〜十五日

十三日、合戦三日前

朝、目覚めると重大な失策に気がついた。
来る十六日の決戦を前に、相模国からの武将を帯同していなかったのである!

陣容として相模国大和村の痛飲衆六人組である・・・
大和天満宮殿、逢殿、奔殿(渇殿の代理)、九の一蛇殿、九の一紅殿、九の一毬殿という、相手から見れば相当な曲者である。
相手方にとっても、顔は一部しか知れ渡っていない。

一旦相模国へ戻り、陣容を整えなければならなくなった。

相模国に戻った三浦介星友は痛飲衆を集結させた。
この集結には二日間を要したのである。

さらに、今回の合戦では典廐信繁隊に配備されることが書状に記してあった。
後世に武勇の誉れ高きを残す、相応しい隊に配属となった!!

十五日、合戦前日・・・

各地から合戦に集結する兵が行動を起し始めている。

典廐信繁殿(小典廐殿)は桜風東行殿と、京極殿は酒奉行殿と、鈴白殿は鍵奉行殿と、石野殿と座敷わらし殿は単独で石和川中島に向かっている。
かくいう相模国大和村の痛飲衆も、車曳き以外は多少なりとも某酒を嗜みながら甲斐国を目指す。

夕刻、合戦前夜の宴迄には武田典廐信繁隊、総勢十五名ここに結集したのである!

明日の合戦を控え、各々の武士達は大いに飲んで盛り上がったことは言うまでもない。
しかし、一番の収穫は酒奉行殿と鍵奉行という、またとない奉行衆を得たことであろうか。

 

平成十八年四月十六日

いよいよ合戦当日である・・・この先、我々典廐隊にはどんな展開があるのだろうか。

隊印を作成して頂いた女神殿も典廐隊の戦い振りが心配らしく“濱甲斐路号”にて駆けつけてくれた。
我々は勝鬨をもって女神殿をお迎えしたが・・・
後で聞くところによると勝鬨でお出迎えの際、ちょいとばかり恥かしかったようである。

落ち着く暇もなく、合戦前に武田全軍で簡単な演習を行った。
進行奉行も言っておられたが、今年の武田軍は頗る元気が良さそうだ。

演習、出陣、共に大きな声を、各々の隊が発しているからだ。
此度のこの戦、武田軍の勝利に終わる事間違いないと思わせる活気があった。

顔見知りの隊も各所で見受けられるが、甘利虎泰隊、穴山信君隊の諸将から御挨拶を受けたのは光栄である。
甘利虎泰隊は昨年の山県みくりん昌景大将殿とも懇親の仲であり、誠に頼もしい友軍を得た感がする。
その後、鵜飼橋のたもとに於いて我々典廐隊は甘利虎泰隊と共に勝鬨を挙げることで、その恩義に報いたのである。
合戦までの時が迫っていた中、さらなる気勢を得る事が出来た。

我々は武田典廐信繁旗持ち鈴白殿を先頭に、典廐信繁公の小典廐殿、副将・京極殿、武田幟旗持に石野殿、馬標旗持に座敷わらし殿、続いて鍵奉行殿、大和痛飲衆六名、桜風東行殿、酒奉行殿、しんがりを三浦介星友といった隊列で望む事になる。

諏訪法性兜装着の儀、三献の儀、滞り行われる中、典廐信繁隊は活躍の場を虎視眈々と伺っていた。

続いて上杉軍の儀式が執り行われるのだが・・・

個々に自前の狼煙を挙げる武者、舟を漕ぐ武者、給水を獲る武者、陣幕の裏で小用を足す武者等々が相次いでいる。
特に甚だしいのは舟を漕ぐ武者である。
笛吹川の水軍ならまだしも・・・

大丈夫であろうか?

甘利虎泰隊の一部に舟を漕いでいる武将が多々見受けられる事が、唯一気になる三浦介であった。

そうこうしている間、武田・上杉両軍の隊形が戦闘態勢にはいったのである・・・

武田典廐信繁隊と秋山伯耆守信友隊の間を広げ、上杉軍車懸の陣形に備える。
ここで上杉鉄砲隊が連射、その後には怒涛の如く押し寄せてくる上杉軍が目に入った。

三浦介星友は武田軍の最前線に立ち、相手の攻撃を受け止めた・・・
「ううぅ、援軍よ続けぃ!」
す、すると京極殿が我と共に上杉軍の攻撃を受け止めている。
実に頼もしい副将である。
大和天満宮殿も続いた・・・流石に相模国の強兵だ。


注:この画像は平成15年のものです

上杉軍の攻撃を受けて幾度となく倒れ負傷するが、その度に復活する典廐隊。
不死身伝説が今、始まったのである!!
(ただし、友軍から笑いを受けていただけ・・・のような気がしてならない・苦汗)

車懸の作戦も相当上杉軍はこたえているようだ・・・
中には、脇差が戦場に落ちていた。
最早、自害した武将もいるのであろうか?

噂によると、山吉孫次郎豊守殿(じゅういち郎殿)が相当な痛手を被ったようである。
もしや・・・あの脇差は山吉孫次郎豊守殿の物だったのか、その辺は定かではない。

武田火の軍団、高坂弾正隊、武田信廉隊、小幡昌盛隊、一条信龍隊、真田信綱隊、多田満頼隊が妻女山から本陣に到着した!

両軍総攻撃の体制が整った。
武田典廐信繁隊と小幡山城守虎盛隊が本陣を固めた。

小幡山城守虎盛殿と言えば、先だっての二十四将行列で拙者の前を行軍した武将ではないか!
おお、また再び高名を轟かせようぞ!(注:この時の小幡殿は別の御人である)

「上杉めが、この武田武士の力をみくびるなよ、ふっ」

いよいよ両軍、総力をあげての戦いがはじまったのである!!

一番槍の上杉隊が本陣に突入してきた。
名も知らぬ武士であるが、相当な気合で刀を振り回してきた・・・
「こしゃくな、拙者の太刀から逃げられるものか」

御屋形さまの前でその武将を討ち取った。
す、すると。。。

「あぶないよ〜止めなよぉ」 
(うっ、決して傷つけるような立ち回りはしていないのだが。むしろ、名も無き武士が非常に危険であった・汗)

後方から御屋形さまの一言が発せられた・・・
流石である、塩を献上して頂いた謙信公へ、せめてもの温情であろうか。
その器の大きさに、拙者は感服した。

しかし、予想以上に本陣での戦いは凄まじかった。
まずは演芸派・梵天丸殿と数度にわたる互角の戦い。
梵天丸殿も拙者の不死身振りに屈したのか、石野殿へ矛先を変えたようである。

すると、若武者・碧雲斎殿が拙者に襲い掛かってきた!
む、まだまだ老獪な拙者の戦振りには叶わぬぞ、どれ、相手をしてやるか・・・
碧雲斎殿と組み合い、彼の首を獲ったところに。。。

相模国近隣・いずみくん殿が現れた!
初めての御目通りが、この石和川中島において叶えられたのだった。
しかも、御敵同士で・・・とは、流石に儚い戦国の世である。

す、すると数人の武将が次々と拙者に襲い掛かって来た・・・
混乱のせいか、名は覚えていないが、どこか見覚えのある武士達が殆どであった。


内通した鈴白殿に
成敗を与える信繁公

しかし、我々の御大将・典廐信繁公は大丈夫であろうか?
山吉孫次郎豊守隊・かず殿が武田軍本陣の前で壮絶なる戦いの末、討ち取られたようだが・・・
そんな事を思案していたのだが、予想通り山吉孫次郎豊守隊・天下布武の巾着を付けた武将(征夷大将軍太郎殿)と典廐信繁公との激しい戦いが行われていたのである。

情報によると、旗持・鈴白殿が内通し、典廐信繁公の居場所を告げたという・・・
むっ、こっ、これわ・・・

← その後、拙者はその証拠たるものを極秘裏のうちに入手したのである。

※これはフィクションであり、実話と異にしておりますこと、あしからず・・・

戦いは終わった・・・

大きな痛手を顔面に受け、京極殿に支えられて退陣する三浦介。

背旗が??

さ、さては鈴白殿同様、内通していたのか!!

川向こう、左手方向には山吉孫次郎豊守隊の一味が!!

典廐信繁公は本当に討死したのか!?

謎の多き石和川中島合戦、とうとう終焉の章を迎えた。

かの石和川中島合戦により、武田典廐信繁公は奮戦の末、武士の鑑と伝える討死を遂げた。
彼が生存中、兄・信玄公の片腕として補佐したのはあまりにも有名である。

嫡子・信豊に与えた九十九ヶ条の家訓は、信繁公の教養と学識の高さを後世に伝える・・・

典廐信繁公は必ずや、どこかで我々を見守ってくれているはず。
そんな事を思いながら、帰陣の途につく三浦介星友であった。

奔殿 逢殿による武芸の稽古

大和痛飲衆揃い踏み

鍵奉行殿 座敷わらし殿 酒奉行殿 
桜風東行殿 京極殿 小典廐殿  

京極殿が酒奉行殿を戒める

武田典廐信繁隊勢揃

 

平成十八年四月二十三日

十七日〜二十二日

なんという穏便な日々であろうか・・・

石和川中島合戦での激戦を終え、相模国には傷付いた三浦介星友の姿があった。
執務に励みながらも、激戦の傷を癒すには充分な故郷・相模国での生活だった。

どれほどの時が過ぎたであろう。
討死したと思われた典廐信繁改め小典廐殿から、電子書状という武器で三浦介星友の許へ早文が入った。

「三浦介殿 申し伝えるべく候 貴殿におきますれば 傷癒し乍も 公務に励む事 誠に恭悦至極
 此度 御屋形様御他界の由 申上げ候
 重ねて伝えますれば 世継勝頼公並びに信勝公 織田軍に攻められ難儀の由
 甲斐大和国へ 出陣の儀 言上件如」 小典廐花押

な、なんと!!
御屋形さまが他界されたと・・・
激しい落胆、そして勝頼・信勝公までもが宿敵織田軍に攻められているとは如何に。
しかし、典廐殿がやはり討死していなかった事は、暗雲はためく武田勢の中では唯一の朗報だった。

最早、一刻の猶予もない。
他国に住を置く典廐隊は、もう参陣は無理である事、察しがつく。
しからば、集結可能な武将を、早々に集めねばならない・・・
また、相模国からも助太刀を頼まねばならぬだろう。

狼煙を挙げ、同意していただいた武将は僅か四将だった。
武蔵国・石野真琴殿、同国・小典廐殿、相模国・織部正殿、同国・相模守太郎殿の四将である。

ただ、一抹の不安があるのは否めない。
二十四将には遠く及ばぬ兵力なのだから・・・

しかし、ここで明るい情報を得た。
典廐隊として参陣された大和天満宮殿、九の一蛇殿が、北條氏政公を誘惑し、共に参陣してくれるというのだ!
おまけに、相模国大和村から女武者も数名参上するという。

再び活気が戻った。
ならば、一刻も早く甲斐大和国へ行かねばならぬ・・・

 

二十三日

その日、四武将と三浦介星友、並びに北條の援軍は甲斐大和国へ行軍した。

思えば織部正殿は石和川中島合戦にて、別名黒駒衆(穴山信君隊)として異彩を放っていた大将格の武将である。

相模守太郎殿は石和川中島合戦においての御活躍、この場では黙認しておこう。
ただ、織田軍鉄砲隊に関しての知識を充分に体得している。
攻め寄せてくるであろう織田軍に対していざとなれば蝶略し、味方に引き入れて頂こうという狙いだ。

典廐隊として出陣した小典廐殿・石野真琴殿は武田世継の窮地を救う為、激戦の疲れもみせず早馬にて駆けつけてくれた。

我々北條氏政公を除いた五武将は、勝頼公から武田鉄砲隊として指名された。
鉄砲に関しては初めての経験なので、不安はあるのだが織田軍鉄砲隊に精通した相模守太郎殿がいるので安心したい。
北條氏政公の旗持には大和天満宮殿、北條夫人を護衛する女武者には九の一蛇殿もいる。

午の刻、武田勝頼隊は天目山の麓に集結した。
沿道には石和川中島合戦前日に負傷し、無念にも参陣叶えられなかった世禰矢殿の姿が見られた。
しばしの間、世禰矢殿を交え密議を執り行った。

その内容は、我々が織田軍と一戦交えた後、武州恩方に勝頼隊を受け入れる手筈を世禰矢殿が整えるというものである。
その為、世禰矢殿は早めに甲斐大和国を発ち、武州へ赴くこととなった。
実に頼もしい女武者である。

こうしている間にも、織田軍が侵攻してくる気配を感じる・・・

敵の数は約一千とみたが、勝頼隊はその数、百名弱。
どうみても勝ち目は無い。

ここは桶狭間合戦の如く、油断した敵に先制攻撃を仕掛ける事が勝利への道に繋がるだろう。
いや、長い目で見れば取り囲まれた織田軍から逃れ、再興を期すのが常道・・・
先制攻撃を仕掛け、敵が動揺している間に勝頼・信勝公を武州恩方へ送るのが我々の役目である。

勝頼隊は信勝公環甲の儀、勝頼公三献の儀を執り行った後、相模守太郎殿を先頭に火縄銃にて敵の陣形を崩そうと隊の最前列に配した。

最早、これしか勝利への道は無い・・・
我々の前には、屋台の今川焼、麦酒、たこ焼、焼蕎麦、放蕩等を食して寛ぎ、油断している織田軍が目に入った。

今だ!絶好の機会なり。

「打てぇ、打てぇ、打てぇ〜〜〜〜〜〜」

ダ ダ ダ ダ ー ン!!


平成17年度「ふるさと武田勝頼公まつり」から拝借(撮影・大和天満宮殿)

 

織田軍は、その場に唖然として立ち尽くしていた。
奇襲戦法は見事に功を奏したのである。

その間に、勝頼・信勝公が織田軍のど真ん中を早馬で駆け抜ける。
関が原の島津軍のように・・・(あれ、時代が逆か・苦笑)

その御姿を最後まで見届ける事は出来なかったが、今頃は武田再興を期して文武に励んでいる事であろう。

織部正殿、石野真琴殿、小典廐殿、相模守太郎殿の行方は・・・
なんと、屋台の今川焼を頬張っているではないか!
いや、今川焼を食すと言うことは、故・今川義元公の供養をしていると理解したい。

静けさが戻った・・・

戦いの場では歌姫・条之内作苗殿が、退陣成功の祝い歌を披露している。

何処の日か、再び甲斐大和国へ参陣することを誓いながら、かの地を後にして故郷相模国へ帰路の途についたのである。

平成十八年度卯月における、三浦介星友の甲斐出兵の儀は総て滞りなく終焉を迎えた。

我々は昨年同様、歴史を変える事が出来たのか?

最後になりますが、

勝頼・信勝公、そして北條氏政公、甲州市の皆さま、神奈川県大和市の皆さま、ありがとうございました。
我々は連戦続きでしたけれど、おかげさまで“ふるさと大和町”にて多々、癒されました。

そして武田二十四将騎馬行列に選んで頂きました甲府市の皆さま。

石和川中島合戦での場を体提供して下さいました御宿、笛吹市の皆さま。

皆さまの温かい御支援により、甲斐国を充分堪能させて頂きましたこと、ここに報告いたします。

※ こ物語はあくまでフィクションであり、実際の史実には基づいておりません

 

TOP

 

 


[PR]何かを探す前に無料占い:当たる!無料占い『スピリチュアルの館』